
英語を勉強しなきゃ! と思いました。ブログで自分のつまらない日常のことをコマコマと書いてみても、世界の人は何も言ってくれません。まあ、日本語を使っている限り、仕方のないことです。でも、それではいけないと思うのです。もっと辞書を引き引き、世界のどこか知らない人と、インクレディブルとか、インディヴィジュアルとか、わけのわからん単語を使って、コミュニケーションをとりたい! と、ふと思いました。
まあ、それもつまらないことかもしれないけれど、全く知らない世界の人とつながれるなんて、なんだかすばらしい! と思いました。決して国内の人とのつながりを否定するわけではありませんが、内向き日本に少しもの足らないものを感じているからなのか。あまりに日常が閉鎖的で、だれとも話をしなくて、しょんぼりなのが嫌になったのか、よくわからないのですが、クルマを運転していて、英語でのコミュニケーション拡大を考えました。まあ、話題としては日常のつまらないことですが、それを英語で昔みたいに表現したいと思いました。今度チャレンジしてみます。ただ、アルファベットをたたきたいだけかな?
そういう閉塞感が、「坊っちゃん」にはありました。若くて意欲的で、正直で、どこへでも行ってやろうと意気込み、社会人1ヶ月の期間をずっと悪戦苦闘していました。いたずら盛りの旧制中学の子らを相手にして、とにかく五感を研ぎ澄まして、自分にとって何がいいのか懸命に探しているうちに、エリート教頭の策略にかかり、2人の数学教師の坊っちゃん・山嵐は新聞沙汰になってしまう。それから2人は辞職覚悟で赤シャツに赤っ恥をかかせることだけを念じて、張り込みをして、芸者と一夜を明かした赤シャツをやっつけます。そして坊っちゃんは東京に帰り、再就職も決まり、1ヶ月の地方生活での挫折をふりかえるのでした。
私は、もっと坊っちゃんはムチャなことをしたというイメージを持っていました。でも、何十年ぶりに読んでみると、坊っちゃんが新規採用1年目なので、職場にとけこもうと努力しているようにも読めました。楽しいし、明快なストーリーではありますが、もっと山嵐と協力して地方の教育に貢献してほしかったんです。それができる人だっただけに残念でした。
やはり、これも人との関係によるのかもしれません。坊っちゃんが山嵐に出会わなかったら、赤シャツのいやらしさに気づきつつも、もっと長く教師生活が続けられたと思うのです。それが、会津出身の人の反骨精神に触れ、松山を飛び出してしまった。
これは後々の作品でも、主人公たちが自力でドラマチックに動くような描かれ方をしていて、読者もついその気になって、ドラマに乗っかってしまいがちですが、漱石のドラマは出会いで、実は大きく変わっていった場面もあったのかもしれません。則天去私じゃなくて、袖振り合うも多生の縁みたいな感じです。

漱石先生に寄り添う気持ちで、先生の好きなターナーを貼り付けたんですね。エバレット・ミレイは、私は好きになれません。たいていの漱石先生のオススメはフォローしたいんですけど、あれは無理なんです。何だかとても怖いんです。先生、すみません。