参加した! と、偉そうに書けるものではありません。ずっと睡魔と戦い、あまり話を理解して、その内容を深めることはできませんでした。もうただパソコンの中を見ていただけでした。パソコンって、自分でわがままに使う分にはいいけど、そこで話し合うのって、少し難しかった。まあ、お昼はたいてい眠いんですけど。
賢治学会参加のために、盛岡に行ったのは四年前でしたっけ。その時もコテッと寝てしまったんでした。そして、今回は自宅で昼からということで、当然寝そうになりました。ああ、本当に私って、ザンネンなやつですね。
13時半から17時までという時間設定も厳しかった。あまりにも長すぎるんです。休憩もあったけれど、ほんの10分とか、5分で、あまり休憩にはならないし、大学の先生たちって、ほんとに一生懸命にお話をしなきゃいけないんだと怖くなりました。先生という職業って、おしゃべりするのが仕事なんですね。たいしたもんだ。私にはできそうにありません。
お話の進め方の中で、それがどうなっているのか、もっと簡単な言い方もありそうだし、そういうことばの使い分けも大事なんだと感心はしました。たくさんの言葉がそこにあるんです。でも、もっとシンプルに話してほしかったんです。でも、そうなると、話は簡単に終わってしまうし、難しいですね。やはり、大学の先生は、物事に筋道を与え、構造を解明させ、今後を解き明かさねばならないから、いろいろと言葉を尽くすんですね。それはもう大変な作業です。
新潟大学の斎藤先生、ロシア文学とかがご専門、その方が「銀河鉄道の夜」をもとにした演劇活動が新潟で行われていて、ただありのままを演じるのではなくて、その後日談とか、劇作家がアレンジしたものとか、いろんな形のものが演じられていて、地域の演劇を活性化させる材料になっているという指摘をされていました。
岩手の演劇活動で中心的な役割を担ってこられた坂田先生、この方は実践家だけに、人がどんな風に動くか、私みたいな者にも分かる話し方をしてくださいました。
愛媛大の井上先生、この方は英文学がご専門で、演劇も少しだけ関わって来られた。賢治さんはあまり縁がなかったのか、地域の芝居小屋の話。
新潟の演劇、岩手の演劇、愛媛の芝居小屋、それぞれの活動を話す中で、どのような接点が生まれるか、というところで、私としては、地域の活動というのを支えていきたいんだけれど、そういうのを生み出すには、相当の地道な活動と、たくさんの仲間が必要だなという気がしました。
新潟の演劇(斎藤先生)は、地域としても活性化させようとしているし、様々な地域演劇祭みたいなのはあるようです。でも、やはり新潟は東京にスポイルされる部分もあって、独自の道が切り開く途中にある感じ。
愛媛の内子という町の芝居小屋、内子座。
環境・施設はいいんだけど、そこでどのようなものを演じていくのか、その運営方向が決まらないし、運営するにしても大都市の松山から離れすぎていて、宝の持ち腐れになりかねない。
岩手の演劇は、独自の発展をこの何年かで遂げてきたけれど、盛岡という町が演劇の街になりつつある、ということだけれど、それを維持していくのは大変なことみたいだった。
どこも、地域の文化をみんなのもの、それぞれのものにするのは大変な努力が必要だし、その努力を放棄したら、何にもない田舎に早変わりするだろうし、そうしたら、そこに住む人々は、もっと何かがある都会をめざすだろうし、地域のそこに、実は欲しいものは何でもあるし、その中で自分たちの生きていく世界を築いていく気持ちを持てる何か、それが必要だなと思いました。
以上、昨日の講演会・シンポジウムに参加した感想でした。