先週の金曜の午後、オンラインで賢治学会に参加しました。余裕がありすぎて、他のページとか見ていて、いざ17時になったら、簡単につながらなくて、右往左往しました。
そして、つながったらもう15分くらいは過ぎてたでしょうか。何やってんだか、どうしてこうスンナリいかないものかなあ。
まあ、こうして遅刻して、うまくつなげなくて、みんなから取り残されて、ヨタヨタついていくこと。しょっちゅうあります。もうあまりにありすぎて、またかよ! という情けなさです。
そういう情けないところがありますね。まあ、自虐しても何にもならないから、その時に考えたことを書きます。
茨木のり子さんの詩が昔から好きだったのは、詩のことばがシンプルで、それなのに力強いと感じられるから、素直に好きだったと思います。
室生犀星さんは、ドラマか何かで犀星さんの詩を紹介されてて、「遠くにありて思うもの」以外の詩だったんですけど、ひと聞きぼれで、ずっと中学から今まで何十年好きでした。でも、自分のものにしたとはいえず、核心にも入り切れていない。
朔太郎さんは、最近少し注目してはみるものの、まだイマイチわからないところがある。
啄木くんの詩は、もう見てられなくて、開いたらすぐに閉じてしまいます。彼の詩を再生させるには、よほどの根気と研究がないと、読む気になりません。短歌はあんなに人恋しいのに、詩はとても私にはザンネンです。
というんで、賢治さんですね。賢治さんの詩は、ずっと食わず嫌いでした。持ってはいたけれど、そこから何か始まる気はしませんでした。どうしてそんなの買ったの? というくらいに、お気に入りの詩はみつからなかった。ただ、一家に一冊みたいな意識で買ったとしか思えないくらいに、読めないままで何十年も過ごしました。
30代、40代とまともに読めてなかった気がします。今オッチャンになって、少しだけ読もうという気になれるのは、奥さんの実家とのつながりとか、賢治さんの世界の方が、啄木さんよりも魅力的になってしまったからでしょうか。
啄木さんはずっと永遠の天才20代であり、そこから老成もできず、プツリとそこで終わってしまったから、それが残念ではあったけれど、自分が彼の倍以上の年になってみれば、青春の短歌はステキなんだけど、それももういいや、という気になってしまう。それで、たまには読むけれど、ほとんど読まなくなってしまっています。
これから、啄木さんを読もうとする時があれば、何かたくらみがあって読むわけで、私自身が単純には読めないでしょう。
そして、賢治さんなんです。賢治さんの詩は、永遠の謎です。この詩はこんなです、と説明を聞いたとしても、それらしい気分にはなりますが、ちっともこっちが深まらない。
なぜなのかというと、農民生活のあれこれを詩の中で取り上げているからです。そこで見聞きし、自分も伝えたいことがあったら、それらを詩の中に織り込んでいく。彼はなんといっても、農業技術者の肩書もあり、そちらの方面で詳しい自らの世界を持っていました。
そして、文学も好きで、童話もずっと書いていた。普通なら、仕事は仕事、文学は文学と、それぞれ使い分けて、それぞれの顔をして、生きているのがよくあることだったでしょう。
でも、賢治さんは、農村の暮らし、そこでの人の生活、農業技術、地質学的なこと、天文の趣味、それらがすべて詩の世界の中に使われている。一つの詩の中に農業と地質学的な要素がまぜこぜになっている。
そんなの読みたくないし、何だか訳が分からない、というのが普通の感想だし、今までの私もそうでした。でも、それが賢治さんの詩の世界を他の詩人たちと違うものにさせているとしたら、それらも読者として聞き入れて、賢治さんと共に、賢治さんの世界に入れてもらって、一緒に彼の宇宙で遊ぶ、そういう心の余裕が必要になるし、それが賢治さんの世界への正しいルートなのだ、というのを教わりました。
すべてを理解しつつ、少しずつ進んでいけば、三十いくつの賢治さんに出会えるかもしれないのです。
私みたいなボンクラには、会ってくださらない可能性もありますが、ノコノコ出かけていきたいんです。
どうしてなんだろう。オッチャンの私でも入っていけそうな気がするのは、彼がずっと何かを求めてたからかもしれない。
啄木さんの求めていたものは、名声とか、人々の支持とか、本が売れるとか、借金がなくなるとか、女の人に持てるとか、あまりに二十代の若者的なんだもんな。オッチャンは、もう少し落ち着いて欲しくなってしまう。
少しずつ、賢治さんの詩集も読んでいきましょう。私は研究者じゃなくて、ただのオッサンなんだから、ボチボチ楽しんでたらそれでいいんですから。