甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

かしはばやしの夜(宮沢賢治)1924

2023年10月28日 21時54分41秒 | 賢治さんを探して

 賢治さんが1924(T13)年に『注文の多い料理店』を出しています。1円60銭で1,000部発行したそうで、果たしてどれくらい売れたんだろう。28歳だったみたいで、2年前に妹のトシさんを亡くし、次の年の夏には樺太への鎮魂の旅に出たり、お父さんと伊勢神宮にお参りしたりしていたらしい(今から100年前の話で、お伊勢参りの時も、樺太へ出かけた時も、9月1日の関東大震災よりも前だったから、世の中の動きとは関係なく賢治さんの「道」を探している時だったんですね)。

 そして、『春と修羅』や『注文の多い料理店』などを出していくのでした。その中に「かしはばやしの夜」というのお話も入っていて、私は記憶にありませんでしたが、これを画家・絵本作家の中野真典さんという方が絵を描き、写真を担当したという中里和人(なかざとかつひと)さんという方も参加して作った本が最近出たそうです。ミスハウスという子供服の会社から出たそうです。

 写真家の中里和人さんは、1956年生まれで、三重県の多気町のご出身。今は東京造形大学名誉教授をされてるそうで、本拠地はすでに関東にあるはずですが、ご実家をギャラリーに改築して、中野さんと一緒に作った本の原画とご自身の写真作品と著作などを展示されていました。うちの奥さんは先週も見たのですが、賢治さんファンである夫を連れてきてあげなくちゃと、本日、彼女の誘いで行かせてもらうことになりました。

 このギャラリーでは、トークショーやら、コンサートなどもされているそうですが、今日はたまたま中里さんが在廊で、説明もしてくださいました。そのお話の中で、100年前に、賢治さんがお父さんと一緒に来られた伊勢神宮は、JR(当時は国鉄だったかな?)で移動されていて、ということはすぐ近くを汽車で通り過ぎていた。現在も多気駅は、紀勢線と参宮線の分岐点になっているし、特急だって止まるポイントの駅なんですが、このギャラリーからクルマですぐのところの多気駅には賢治さんは汽車を待ったかもしれないし、ひょっとしたらお弁当も買ったのではないか、ということでした。今は駅弁なんかもなくなったただの駅なんだけど、昔はもっと賑わっていたようです。何だか、信じられなかったけれど。中里さんも、多気駅の駅弁はおいしかったし、わざわざ買いに行くこともあった、なんて教えてくださいました。



 賢治さんは作品は次から次と書いておられたけれど、こまかな日記みたいなのは残していないのか、多気駅の弁当がうまかったとか、そんなことは書いてないでしょう。だからこそ、我々は賢治さんと私たちのつながりを探してしまうし、私なんかは晩年の石灰石が農地改善に有効ということでセールス活動をされてたのが、ちようど奥さんの実家のあたりにあった工場からの依頼だった、なんていう細いつながり、何だかそういうものに期待してしまうんでした。

 彼女のおうちには、賢治さんからのハガキがあったというけど、本当の話だったのかどうか。



 細い100年前からのつながりをたどって、今、私たちは、何度も花巻を写真に撮られていて、その関連の写真集も出しておられる中里さんにもお会いすることができました。

 そして、中野さんという独特の絵を描く人の作品も見せてもらった。

 

 そして、奥さんは出たばかりの別冊・太陽の「宮沢賢治」を買わせてもらって、帰ってきたんですけど、わざわざ故郷に出向いて作品展をされて、私たちに賢治さんの世界を味わわせてくれる人がいたなんて、突然だからビックリしたけど、私たちなりには受け止めたでしょうか。

 いや、作品そのものをまた読まなきゃいけないです。写真や絵本で満足してちゃだめだ。それは、助けにはなるけど、原典をたどらなきゃ、空疎なものになってしまうな。ちゃんと読んでみます。

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