★ 末の松山 というところに行きましょう。仙台から石巻まで、海沿いに仙石線の線路があったのは知ってたんだけど、そして、東北本線も松島くらいまでは並んで走っていて、さすが仙台は大都市だから、いくつかのルートが多少重なってもいいから、同じようにあるのだなと思っていましたけど、そのどこかにそういう場所があるようです。そうだったんですね!
初めて松島に行ったのは1984年で、確か雨でした。どしゃ降りでした。瑞巌寺もまわって、彼女の実家に夕方に着いたんでした。すべて鉄道での移動でした。今なら、クルマで移動するだろうし、その方が便利かもしれないんだけど、昔は鉄道しかありませんでした。考えてみれば、ついこの間のことなのに
、人の流れって変わったのかもしれないです。
芭蕉さんは、雨降ってなかったのかな。
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。
そのあと、野田の玉川・沖の石を訪ねました。末の松山にはお寺ができていて、末の松山をそのまま寺号として「まっしょうざん」としているようです。その辺の柔軟性というのか、そこは人のおもしろみというものでしょうか。
この末の松山って、「契りきなかたみに袖を絞りつつ末の松山波こさじとは」という百人一首でおなじみのところでした。どうしてそんな歌枕の名所ができたんでしょう。
海側の道沿いに小高い丘があったようで、地震で津波が来るかもしれない時に地元の人たちの避難する場所になっていたから、ここだけはどんな時も安心の場所というお話ができて、それが人々の間で広がって、歌の枕にまで出世したわけですね。
高校生の時、無理やりに覚えさせられた百人一首、私は「おく山に紅葉踏み分け鳴くシカの声聞く時ぞ秋はかなしき」が好きでしたけど、あとは何にも残らなかったなあ。まあ、そういう世界があるというのを知っただけでしたっけ。
それで、2021年の私たちは、もう「末の松山」をただの歌枕と認識するよりも、ほんとに人々にはいざという時に大切な場所だったのだと感じることができます。9世紀末の大地震も、21世紀初めの大きな地震も、それをつなぐ百人一首の歌も、同じ地平にあったとつくづく感じることができるようになりました。
これだけは、芭蕉さんよりもリアルに「波越さじとは」を感じられます。ありがたいやら、悲しいやら……。
松のあひあひみな墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契(ちぎ)りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増さりて、塩がまの浦に入相(いりあい)のかねを聞く。
お寺の松のあいだあいだからは広大なお墓が見えて、松のように枝に枝を重ねて人として結ばれ、やがてはそれぞれこの世からいなくなっていく人の一生いうものが感じられ、悲しさもひとしおで、塩竃の浦に入相の鐘を聞くのでした。
五月雨(さみだれ)の空いささかはれて、夕月夜(ゆうづくよ)かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。あまの小舟(おぶね)こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。
五月雨の空がほんのしばらくの間晴れて、夕方の月がかすかに浮かんでいます。まがきが嶋もほど近くに見えます。漁師は海にこぎ出し、サカナを分ける声も聞こえて、「綱手かなしも」と過去の歌人が読んだ気持ちも感じられて、あわれな気分になりました。
芭蕉さん、少し文学っぽくなっていますね。リアルな風景と過去の歌などをつなげるのは文学者でなくてはいけません。まあ、別に文学者でなくてもいいんだけど。
その夜、めくら法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。
その夜、琵琶法師の奥浄瑠璃というものを聞かせてもらいました。平家語りでもなく、舞でもありませんでした。ひなびた調子の曲であるものの、高らかにかき鳴らす部分もあるなどして強弱はあるものの、やはり地方の味というのを忘れず残していて、立派なものだと感じ入ったのでした。
そういうこの地域の浄瑠璃というか、地方文化があったそうです。それがどんなものだったのか、一度聞かせてもらいたいものです。