甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

表記のこと コドモとココロとクニ

2018年09月16日 20時21分57秒 | ことば見つけた!

 3連休の中日、庭仕事しました。それから、ヒガンバナを見に行きました。

 奥さんに写真を撮ってもらったから、みっともない自分の写真はフェイスブックに貼り付けようと思っています。

 だったら、ヒガンバナを載せたらいいのに、表記の問題をメモしておきたいので、こちらを優先します。

 その前に、若い人に「どうしてお米の数え方でゴンゴウ(五合)という言い方があるんだろう?」と訊かれて、お米を計ったことなんてないし、お米を研いだのも人生の中で数十回はないと思うし、本当に役に立たない私なんですけど、不思議な気持ちになりました。

 「ゴンゴウ」というのはなぜ? 音便かな。撥音便と促音便、違いがわからないというか、いつも間違ってたよな。「ン」がつくということは、「ツ」と関係のある撥音便だから、「ゴンゴウ」も音便になったということかなあ。

 でも、音便ということは、文として存在するときに音便するんだから、「ゴンゴウ」を使う文って、あるかなあ。ないなあ。じゃあ、音便じゃないんだ。

 もう、わからないから、ネットで訊いてみよう!

 そうすると、「サンゴウ、ヨンゴウ、ゴンゴウ炊き」というふうに、ゴロがいいから、それが使われてるうちに定着したのだという説でした。

 なるほど、それはいい説明です。お米をカウントするときしか「ゴンゴウ」は使わないんでしょう。お酒の時とか、使うんだろうか。

 
 さあ、突然だけど、表記の問題だ!



1 「コドモ」……どんな表記にしますか?
 ア・子供    イ・子ども   ウ・こども


 私は、ア・子供は使わなくなりました。よほどのことがない限り、たとえば、だれかの文章を丸写ししなければならない場合は、「子供」を使いますが、たいていは使いません。

 どうしてなんでしょう?

 「コドモ」は大人・親の「お供」ではないので、「子のお供」と書く「子供」はいけないと誰かに入れ知恵されたんだと思われます。

 変なところで片意地を張る私ですけど、わりと素直な気持ちで受け入れると、そのままずっと守り通すところがあって、以来ずっと「イ・子ども」を採用しています。

 「子」という存在はたくさんいるし、うちの子も1人だけいますし、もうすべての「子」に対して「子ども」というふうに使います。

 時々「ウ・コドモ」と使うかもしれませんが、これはよほどのことがない限り使いません。コドモの世界であったり、コドモたちの夢の国であったり、もうすでに私はこどもの世界から遠いところにいて、実家に帰ると少しだけ母の子になりますが、たいていの時間は「オッサン」ですから、自分とは違う生き物としてのこどもたちを表現するときに、カタカナ書きをするかもしれない。

 みなさんは、どうされていますか? 別に家来・お供という意味ではないと思うんですけど、「こども」ということばがある限り、使わなきゃいけないし、表記するときには悩みつつ使い分けています。




2 「コトバ」……どんなふうに表記しますか?
 ア・言葉   イ・ことば   ウ・コトバ


 3つだけのつもりだったのに、書いているうちに気になったのがコトバでした。

 パソコンで打っていると、「ア・言葉」は標準のような気がします。さあ、どうだ、次を打ち込めよ、とパソコンは言います。でも、私は、変なこだわりで、「イ・ことば」を使っている場合が多いような気がします。

 「言葉」「ことば」、特に違いはありません。ことの切れっぱし(端・葉)が、口から出て、それが意味を成して動き出す。人の心をとらえ、人をぐらつかせ、大男もガックリしてしまうのがコトバでした。

 だから、「言の葉」というのは優美な感じで、漢字表記もなかなか味があります。

 でも、あえて使わないのが私の偏屈です。漢字が書けないわけではなく、漢字を書くのを面倒くさがっているわけでもありません。

 あえて言うなら、見た目のやさしさを求めて、あえてひらがな書きすることが多い気がします。どうせつまんない文章しか書けないのに、見た感じのやさしさは求めているような気がする。



3 「ココロ」……どんなふうに表記しますか?
 ア・心   イ・こころ   ウ・ココロ
  


 おそらく、中三くらいまでは「ア・心」だったと思われます。でも、近ごろはだいぶ私の中で揺れていますし、メンタルなことを言いたいときには、「私の心の問題です」とか、「心からそう思います」というふうに漢字を使います。

 でも、中三くらいに漱石の「こころ」を読みました。漢字で書くと、わりとパターン化された、簡単に類型化された心みたいなものになるのに、ひらがなの「こころ」は、とらえどころがなくて、コロコロと動き、誰にもあるのに誰とも違う、千変万化の存在としての「こころ」があるような気がしてきました。

 ある程度、人の心は、類型化もされるけれど、それでも、人とは違う、簡単には他人からは量ることのできない、ものすごく深くて、ものすごく暗い何かのようなものでもある、という気がしています。

 だから、「こころ」という表記もありだ、と思うのです。

 でも、あまり私はココロを論じることはない気がする。自分のこころはわかるような気がするのに、人のこころはあまり理解していないからでしょう。ホントに、私という人間は、他人に対して気が回らないのです。何ということだ。こころどころじゃなくて、自分の在り方の問題ですね。



4 「クニ」……どんなふうに表記しますか?
 ア・国   イ・くに   ウ・クニ


 ものすごく「ア・国」が当たり前という感じがします。それ以外ない気がする。

 でも、ひねくれ者の私には、時々「ウ・クニ」というのもあり、という気もします。ウを使う時は、国というものの怖さを感じ、結局、この得体のしれない、どこからどんな形で私たちを支配しているのかわからない不気味な存在として「ウ・クニ」を使うこともあります。

 アベさんはクニではありません。アベさんは政府であり、政治家であり、支配者・権力者です。だから、国民全体としては私たちに向き合っているでしょうけど、大学関係者とか、地方の幹部とか、そういう人たちではない、その他大勢の人々だから、どうでもいい存在、顔のない国民として見ていることでしょう。

 だから、私たちの悩みや声や願いなどは聞き入れなくていいのです。

 私たちは、政治家の皆さんにとって、顔のないその他大勢にしかすぎないからです。

 ああ、国なんて、あまりまともに使ったことないですね。そして、なるべくなら国家と距離を置いて、国家のお世話にならないような、独立独歩の生き方をしてみたい。でも、それは無理なんだろうな。

 いや、最初から挫折する必要はない。ぜひ、国家と距離を置いた生き方を志向しようではありませんか。どうせ口だけなんだろうけど、すぐにくじけるだろうけど、自分の力で生きていきたいです。今はもう、みんなのおかげで生きていけているようなもんだから。


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