漱石の「草枕」のその一を読みました。四十年くらい前の新潮文庫で読んでいますから、なかなかキビシイものがあります。本当に読書はつらいものになりました。机の上で大きな活字のものなら、もう少し楽に読めるでしょうか。
それとも、青空文庫を検索して、それを読み続けたらいいんでしょうか。確かに読めるけれど、私は落ち着きません。慣れないだけかもしれないけど、ダメですね。
それなのに、漱石のことばを収集するときは、昔は手書きでカードに書いていましたけど、今はコピー・アンド・ペーストですね。何たることでしょう。でも、ありがたい。
というわけで、まずは「ひばり(雲雀)」から抜き出してみます。
たちまち足の下で雲雀(ひばり)の声がし出した。谷を見おろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙(せわ)しく、たえまなく鳴いている。方幾里(ほういくり)の空気が一面にノミに刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音(ね)には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句(あげく)は、流れて雲に入(い)って、漂(ただよ)うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡(うち)に残るのかも知れない。
巌角(いわかど)を鋭どく廻(まわ)って、按摩(あんま)なら真逆様(まっさかさま)に落つるところを、きわどく右へ切れて、横に見下おろすと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金(こがね)の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上がる雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字にすれ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠(ネズミ)を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂(たましい)の居所(いどころ)さえ忘れて正体(しょうたい)なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒(さ)める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然(はんぜん)する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。
主人公が山道を登っています。風景などが目に入りますが、それよりも自分の思いを解放させて、あれやこれやと思いを進めています。ヒバリの声が聞こえて、思い切り鳴いている姿に感心します。
そうです。私も昨日、奥さんと朝の散歩に出かけて、金属音のような声と、だれかを呼ぶような声を聞きました。通常のヒバリの鳴き声ではなく、彼らにもいろいろな事情があるんだなと思ったりしました。いや、あれはヒバリではなかったのだろうか。たぶん、ヒバリだったと思うんですが……。
「理想の詩」非人情
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通(しとお)して、飽々(あきあき)した。飽々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞(こぶ)するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界(じんかい)を離れた心持ちになれる詩である。
いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌(しいか)の純粋なるものもこの境(きょう)を解脱(げだつ)する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば スーパーマーケット)にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気(のんき)な扁舟(へんしゅう)をうかべてこの桃源(とうげん)にさかのぼるものはないようだ。
余はもとより詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界(きょうがい)を今の世に布教して広げようという心掛けも何もない。ただ自分にはこういう感興(かんきょう)が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几(さんきゃくき)をかついで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥(しょうよう)したいからの願い。一つの酔興(すいきょう)だ。
理想の詩、西洋の詩は人情・人事の詩で、東洋の詩はもう少し人間から一歩引いた詩だといいます。漱石先生の理想する漢詩の世界ですね。
「登場人物」
余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似(まね)をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探さぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議(せんぎ)立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支かえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳わけに行かなくなる。
これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐(ふところ)には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面のうちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間(あいだ)三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気げなしに見られる。ことばを換えていえば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事ができる。
絵の中の人は動きません。どんなにドラマがあったとしても、時間は止まっている。一方、小説の中の人物は、作者が適当に動かしていると、自然とあれこれ動き出すようです。人物が動き出さない小説は、なんだか味気ないというか、平板になってしまう。でも、どうしたら個性が引き立つのか、それはなかなか難しいものがある。
私は、作品の中の人物を描くことができなくて、小説なるものが書けていません。いつか「徒然草」の世界を小説に書きたいなんていう野心がありますが、私の中で人びとが動き出さないから、ドラマが生まれないんです。
ああ、このまま構想だけで、私の小説は形にならないままに終わるのか、それとも小説として結晶化するのか、それは今後の私の精進次第ということなのかな。
とにかく、個性・キャラの浮き立つ物語って、書けたらいいのになあと思うのです。
それとも、青空文庫を検索して、それを読み続けたらいいんでしょうか。確かに読めるけれど、私は落ち着きません。慣れないだけかもしれないけど、ダメですね。
それなのに、漱石のことばを収集するときは、昔は手書きでカードに書いていましたけど、今はコピー・アンド・ペーストですね。何たることでしょう。でも、ありがたい。
というわけで、まずは「ひばり(雲雀)」から抜き出してみます。
たちまち足の下で雲雀(ひばり)の声がし出した。谷を見おろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙(せわ)しく、たえまなく鳴いている。方幾里(ほういくり)の空気が一面にノミに刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音(ね)には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句(あげく)は、流れて雲に入(い)って、漂(ただよ)うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡(うち)に残るのかも知れない。
巌角(いわかど)を鋭どく廻(まわ)って、按摩(あんま)なら真逆様(まっさかさま)に落つるところを、きわどく右へ切れて、横に見下おろすと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金(こがね)の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上がる雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字にすれ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠(ネズミ)を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂(たましい)の居所(いどころ)さえ忘れて正体(しょうたい)なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒(さ)める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然(はんぜん)する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。
主人公が山道を登っています。風景などが目に入りますが、それよりも自分の思いを解放させて、あれやこれやと思いを進めています。ヒバリの声が聞こえて、思い切り鳴いている姿に感心します。
そうです。私も昨日、奥さんと朝の散歩に出かけて、金属音のような声と、だれかを呼ぶような声を聞きました。通常のヒバリの鳴き声ではなく、彼らにもいろいろな事情があるんだなと思ったりしました。いや、あれはヒバリではなかったのだろうか。たぶん、ヒバリだったと思うんですが……。
「理想の詩」非人情
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通(しとお)して、飽々(あきあき)した。飽々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞(こぶ)するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界(じんかい)を離れた心持ちになれる詩である。
いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌(しいか)の純粋なるものもこの境(きょう)を解脱(げだつ)する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば スーパーマーケット)にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気(のんき)な扁舟(へんしゅう)をうかべてこの桃源(とうげん)にさかのぼるものはないようだ。
余はもとより詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界(きょうがい)を今の世に布教して広げようという心掛けも何もない。ただ自分にはこういう感興(かんきょう)が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几(さんきゃくき)をかついで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥(しょうよう)したいからの願い。一つの酔興(すいきょう)だ。
理想の詩、西洋の詩は人情・人事の詩で、東洋の詩はもう少し人間から一歩引いた詩だといいます。漱石先生の理想する漢詩の世界ですね。
「登場人物」
余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似(まね)をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探さぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議(せんぎ)立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支かえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳わけに行かなくなる。
これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐(ふところ)には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面のうちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間(あいだ)三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気げなしに見られる。ことばを換えていえば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事ができる。
絵の中の人は動きません。どんなにドラマがあったとしても、時間は止まっている。一方、小説の中の人物は、作者が適当に動かしていると、自然とあれこれ動き出すようです。人物が動き出さない小説は、なんだか味気ないというか、平板になってしまう。でも、どうしたら個性が引き立つのか、それはなかなか難しいものがある。
私は、作品の中の人物を描くことができなくて、小説なるものが書けていません。いつか「徒然草」の世界を小説に書きたいなんていう野心がありますが、私の中で人びとが動き出さないから、ドラマが生まれないんです。
ああ、このまま構想だけで、私の小説は形にならないままに終わるのか、それとも小説として結晶化するのか、それは今後の私の精進次第ということなのかな。
とにかく、個性・キャラの浮き立つ物語って、書けたらいいのになあと思うのです。