小説は一つも読んでいないのに、エッセイなら読めるかなって、葉室麟さんの『河のほとりで』(2018 文春文庫)を以前読みました。かなり面白くて、あれこれと抜き書きをしました。勉強になりました。
葉室麟さんは、本拠地を福岡に置かれてたと思うのですが、晩年は京都に本拠地を移転して、ここで取材し、ここで書いていったそうです。そして、エッセイもいろいろなテーマで書いておられて、2017年に新潮社より『古都再見』ていうのが出ていて、2020年に文庫で出て、私は最近それを手に入れた、というところです。
その『古都再見』の中から、ホンワカするような、何だか残念なような、それとも運命的というのか、そういうエピソードを教えてもらいました。
漱石先生と京都の話です。
先生は、京都には四回ほど訪れたそうです。通過したり、その他はあったかもしれないけど、滞在することはそれくらいだったんでしょうか。
一回目は、1892(M25)の7月、25歳のときに正岡子規さんと一緒に旅をして、松山にも向かい、中学生だった高浜虚子さんにも会った。
二回目は、1907(M40)の春、朝日新聞に入社して、『虞美人草』の連載が6月から始まるのですが、その取材のために京都を訪ねています。
三回目は、1909(M42)の秋、中国東北部への旅の帰途に寄ったとか。
そして、四回目、1915(T5)48歳のとき、随筆『硝子戸(ガラスど)の中(うち)』の連載を終えて、京都に滞在することになったそうです。
高瀬川のほとりにお宿をとって、川向こうの祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将さんで、「文芸芸妓(げいぎ)」とも呼ばれた磯田多佳さんと意気投合した、ということがあったそうです。
三月の終わり、うららかな春の京都、いろいろな行事をゆったり楽しむことが京都を楽しむことだったでしようか。
そして、漱石先生は多佳さんから、天神様(北野天満宮)の梅を見に行こうと誘われたのだそうです。そして、その日が来たと思ったら、彼女から何の連絡もないし、誘いに来てくれなかったということでした。
裏切られたと感じた漱石は京都市内の帝室博物館(今の国立博物館ですね!)から伏見稲荷大社、新京極まで闇雲に歩き回ったあげく、宿に戻って「春の川――」の句を詠んだのだ。
それから、先生は寝込んでしまい、奥様が迎えに来てくれるし、東京に帰ってからも多佳さんをなじる手紙を書いたり、執念深くすっぽかされたうらみ・つらみを述べたということでした。
俳句は、
春の川を隔てて男女(おとこおんな)かな
というものでした。多佳さんとしては、25日は天神さんのお祭りだから、その時に梅を見に行きましょう、そういうお誘いだったそうです。でも、舞い上がってた漱石先生は、日を間違えてしまっていて、自分の体を壊すくらいのストレスになってしまったということでした。
先生は48歳、多佳さんは36歳、お話していて楽しかったら、そりゃデートに誘われたら舞い上がってしまうし、日を確認できなかったかもしれないし、すぐにデートだと早合点したかもしれないです。作品に向き合う時はいろいろ考えられたかもしれないのに、生活のことになると、何だかせっかちになってしまうところがあったのかなあ。
ああ、先生、体を壊すことはなかったのに! それから寝込んでしまうし、翌年の12月には命が亡くなってしまったんですよ。どうしてそんな命を削るようなストレスを自分で作ってしまったのかなあ。私は、それが残念なんだけど、そこがまた先生らしくて、慕わしい気持ちもします。
私なんて、すぐに叱られるのがオチなんだけど、遠くからお慕いするような気持ちです。