芭蕉さんはずっと「こころともない(待ち遠しい)」と思っておられたということですが、私はその反対で、「こころうし(自分が情けない)」というのか、「こころなし(思いやりがない)」というのか、ジタバタするくせに、白河の関を越えようとしていませんでした。
たしか私は、今年の八月の初めには、福島県から栃木県へと高速を抜けていたはずなんだけど、もう1か月も前のことになりました。でも、「おくのほそ道」の旅はずっと続けようと思います。
秋になろうが、冬になろうが、少しずつ旅するつもりです。何しろ、今年の夏、象潟に行きましたからね。
芭蕉さんには少し遅れたけれど、ちゃんとネムの花も見ましたから、そこまでは今年中に着きたいと思います。
心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白川の関にかゝりて旅心(たびごころ)定まりぬ。「いかで都へ」と便(たより)求めしも断(ことわり)なり。
なかなか白河の関にたどり着けませんでした。そりゃ、あちらこちらで歌枕やら、俳句の興行をしておりますから、ただ目的地へ急いでいるわけではないので、簡単にみちのくの世界の入口には着けませんでした。
それは、わかってはいるのです。でも、やはり、白河の関を越えるというのは、まず第一関門ではあったわけです。二十数日かけてやっと、白河の関なのです。
四月の二十日ではあるので、すでに初夏の雰囲気です。このとっかかりの白河の関にて、やっと私たちの旅の心は落ち着いたようです。
昔、平兼盛(たいらのかねもり)さんが「この関を越えたというのを何とかして都へ知らせたいのだ(たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと)」と、歌を詠んだそうですが、そんなことをしたくなるような、はるばるここまできたという気持ちにさせてくれる場所なのです。
中にも此の関は三関(さんせき)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)猶(なお)あはれなり。
昔の風流な旅人たちがあこがれたこちらは、たくさんある街道の関所の中でも三つの関所と挙げられるくらいに、有名なところではあったのです。
古来より風雅を愛した詩人や歌人が関心を寄せ、詩歌を残しています。
能因法師さんは、「都をば霞(かすみ)とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を詠みました。
都を出る時はまだ春の初めでありましたが、それからずっと旅をして、やっと白河の関にたどり着いてみると、秋風が吹くようです、というような歌でした。
平安末期の武家の源頼政さんの詠んだ歌というのは、「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」
これもやはり、白河の関ははるかに遠いという意味で、初夏に都を出て、白河の関にたどり着いたら、紅葉となり、それらが地面に散り敷かれている、というような歌でした。
そんなはるかに遠いイメージのあった白河の関に、私は江戸からひと月足らずで着きましたが、それでもやはり遠い感じはするものです。
白河の関の青葉を見ても、ただ目の前にある青葉だけではなくて、いろいろな人々の思いが行きかっている気がして、何とも言えない情趣を感じてしまいます。
(卯の花って、空木のことだそうで、これ、そうかな? 葉っぱが違うかな?)
卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(むばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。古人(こじん)冠(かんむり)を正し、衣装を改めし事など、清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着(はれぎ)かな 曾良
卯の花をかざしに関の晴着(はれぎ)かな 曾良
昔の歌に詠まれた卯の花が咲いている上に、茨の花が白く咲き加わって、まるで昔の歌にある雪景色を越えていくような気持ちがするようです。初夏だというのに、幻想を見ているような気分になりました。少し興奮しているんでしょうか。
昔の人がこの関を越える時、冠をきちんとかぶり直し、衣服を正装に着替えたことなどが、藤原清輔の文章にも書きとどめてあるということです。それくらい昔の人にとっては、この関を越えることが、何か特別な気分があったのだと思われます。
私たちは、それほどの改まった衣装というのは持ってはいないけれど、気持ちとしては神妙な、厳かな気持ちにはなっています。
さて、弟子の曾良が句を一つ詠みました。
この白河の関を越える時、昔の人は冠をかぶり直し、正装に着替えたそうですが、今の自分は冠や正装は持っていません。そこで、道ばたに白く咲いている卯の花を飾ってかざしとして、それを関越えの晴れ着にしましょう 曽良
昔の人々の改まった気持ちにうまく重ねることができた作品かなと思います。