春秋時代の呉は、紀元前12世紀から紀元前473年夫差さんまで続きました。けれども、越に滅ぼされてしまいます。ここから六百年後の三国志の時代、魏・呉・蜀のときにも「呉」という国があります。私は昔はこんがらがっていました。というか、三国志の方がメインでした。
オッチャンになって、春秋時代というのがあり、呉が越と争い、「呉越同舟」のことばになったりしているのを知ります。こちらの方が古いし、三国志うんぬんをしている私はまだまだチャラかったのです。
それが滅びてしまった。国が滅びるのは意外とあっけないものなのだと思います。どんなに栄光と富を集めてみても、滅びるときは滅びるようです。
時代は変わろうとしていました。国の王様は絶対権威の存在かと思っていたら、そうでもないものに変わろうとしていて、ダメなものはダメとサラリと切り替わる時代に変わろうとしていた。ダメな王がいれば、それを優秀で実力のある家来が王を追放・殺害などをしてもよい時代がやってきます。年表を見てみましょう。
借り物で整理できていないので、おいおい整理していきます。
BC403 晋の三家が諸侯として認められる。(三晋の成立)。
BC386 斉の田氏が諸侯として認められて斉の公位を簒奪(さんだつ)した(田斉の成立)。
BC376 三晋諸国が未だに小諸侯として存続していた晋を最終的な滅亡へと追い込む。
BC 魏公・文侯に登用された李克・呉起は中山国の都を陥落させる。
BC 魏公・恵王の時代には、諸侯の間で初めて王の称号を使うなど、強勢を誇ったが、斉の孫臏(そんぴん)の軍略により大敗したことを契機として、凋落の道をたどる。
南の楚は、魏の権力争いに敗れて亡命してきた呉起を迎え入れて政治改革に取り組み領土を広げるが、呉起を擁護した悼王の死後に呉起が反対派によって殺され、改革も頓挫した。
西の秦では孝公の下で商鞅による政治改革が行われ、厳格な法治主義による統治体制により秦の国力は増大し、魏・韓を圧迫し、張儀の策謀により、楚の懐王を捕らえ、その領土を奪った。
BC284 楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に斉が大敗し、首都臨淄を陥とされ、莒と即墨以外の全ての邑は占領されたことで終わりを告げる。
BC260 秦は、名将・白起を使って諸国に苛烈な攻撃を加え、紀元前260年には長平の戦いで趙に大勝し、45万と言う将兵を一度に殺した。
BC256 秦は東周を滅ぼす。
BC247 えい政が秦王に即位する。 →やがて始皇帝になる人物。
BC230 秦は韓を滅ぼす。
BC228 秦は趙を滅ぼす。
BC225 秦は魏を滅ぼす。
BC223 秦は楚を滅ぼす。
BC222 秦は燕を滅ぼす。
BC221 秦は斉を滅ぼし、天下を統一。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。
BC386 斉の田氏が諸侯として認められて斉の公位を簒奪(さんだつ)した(田斉の成立)。
BC376 三晋諸国が未だに小諸侯として存続していた晋を最終的な滅亡へと追い込む。
BC 魏公・文侯に登用された李克・呉起は中山国の都を陥落させる。
BC 魏公・恵王の時代には、諸侯の間で初めて王の称号を使うなど、強勢を誇ったが、斉の孫臏(そんぴん)の軍略により大敗したことを契機として、凋落の道をたどる。
南の楚は、魏の権力争いに敗れて亡命してきた呉起を迎え入れて政治改革に取り組み領土を広げるが、呉起を擁護した悼王の死後に呉起が反対派によって殺され、改革も頓挫した。
西の秦では孝公の下で商鞅による政治改革が行われ、厳格な法治主義による統治体制により秦の国力は増大し、魏・韓を圧迫し、張儀の策謀により、楚の懐王を捕らえ、その領土を奪った。
BC284 楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に斉が大敗し、首都臨淄を陥とされ、莒と即墨以外の全ての邑は占領されたことで終わりを告げる。
BC260 秦は、名将・白起を使って諸国に苛烈な攻撃を加え、紀元前260年には長平の戦いで趙に大勝し、45万と言う将兵を一度に殺した。
BC256 秦は東周を滅ぼす。
BC247 えい政が秦王に即位する。 →やがて始皇帝になる人物。
BC230 秦は韓を滅ぼす。
BC228 秦は趙を滅ぼす。
BC225 秦は魏を滅ぼす。
BC223 秦は楚を滅ぼす。
BC222 秦は燕を滅ぼす。
BC221 秦は斉を滅ぼし、天下を統一。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。
怒濤の勢いで秦がすべてを飲み込んでいくのが年表を見ていて、こわいくらいです。
ですから、この二百年くらいの戦国時代は、晋から始めて秦で終わるかたちがいいのかな。少しずつ勉強しながらやっていくことにします。よろしくお願いします。