芭蕉さんの全句集(角川文庫)を拾い読みしていて、見つけました。ささやかなミスがうれしくて付せんを貼り付けました。さて、どういうことかというと、
范蠡(はんれい)が趙南(てうなん)のこころをいへる『山家集』の題に習ふ
一露(ひとつゆ)もこぼさぬ菊の氷かな ……続猿蓑
何のことかイマイチ意味が取りにくいです。氷だから冬ですね。水滴がこぼれるのを許さずにそのまんま氷としてつけている、そういう菊ということになるのかな。
角川文庫では、「一滴もこぼすまいと、寒菊はそこに置く露を氷としていることだ。」と訳しています。それくらい寒い。そういう時期に咲いている菊ということですね。
まだ秋の真ん中だと思うので、霧や露が氷になるなんて、三重県あたりでは考えられないけれど、あともう少ししたら、そういう季節がやってくるんでしょう。
芭蕉さんのミスって、なんでしょう?
「范蠡(はんれい)が趙南(てうなん)のこころ」という詞書きがわからないです。西行さんは何を書いておられるのでしょう。
「捨てやらで命を恋ふる人はみな千々(ちぢ)の黄金(こがね)をもて帰るなり」
そういう歌があるそうです。この歌の詞書きは、「范蠡長男の心を」とあったそうです。
この「長男」が版本には「ちやうなん」とひらがな書きされていて、中国の歴史を習った芭蕉さんは、「趙」という国の南だと考えたらしいのです。教養が邪魔をしたミスなのかな。
西行さんが言いたかったことは、命乞いをするときには、何もかも捨てて、お金も使いまくって、コネも使いまくって、とにかくやれることはすべてやり尽くして、その人の無事を勝ち取るものなのなんだよということでした。
「捨てやらで」ということは、つい出し惜しみをして、捨てることをしないでしまうと、確かに小金は残るだろうけど、救いたい命はどうなるの? すべてを投げ出すことをしなくちゃ! 好きな人がいたら、全身全霊で助けだそうとしなくちゃ!
そういう意味なのかな。出し惜しみはいけない。拉致問題被害者の会の人たちは、それはもう全身全霊だと思うのですが、その気持ちを受け取って行動する人たちは、どれくらいやれているのか。交渉のカードとしてしかやってないんじゃないの? 全身全霊なのかな。
とにかく助けたい命には、だれもが全力を尽くすということです。
西行さんは、「出し惜しみをするな!」とうたいました。
芭蕉さんは、「寒菊は露さえこぼさないくらい、寒さの中で耐えているよ」と、方向性を変えて句を作りました。
さて、ここで問題は、范蠡さんになるわけです。62は彼のことばです。63は彼が呉の国に送り込んだセクシークイーンです。
62【大( )の下には久しくおり難し】……成功したところ・目的を達成したところには長居は無用である。
63【( )みにならう】……よしあしの区別なく、(やたらと)他人のまねをすること。猿まね?漢字では「顰に効う」と書きます。
前回に取り上げています。越の軍事顧問・最高司令官・参謀として大活躍をしました。けれども、もう越という国としては目標は達成してしまいました。宿敵の呉を滅ぼすという目標を立て、苦い思いを経験して、最後にやっと滅ぼした。
すると、彼はスルリと引退し、勾践(こうせん)のもとから去ることにした。知恵のある人だから、政治家ではなく、商売人として成功したということです。
もちろん、住むところも、まったく自分で開発し、自分で切り開いた。呉越地方にまったくこだわりはなかった。やはり、商売は交通の発達したところ、ということでもう少し中国の中心の五湖地方へ引っ越したということになっています。
次男が殺人を犯してしまったそうです。減刑のためにはお金がいります。そのとき范蠡(はんれい)さんはお金を握っていなくて、長男が実権を握っていた。そして、長男はパターン通り出し惜しみをして、次男を見殺しにしてしまったということだそうです。
それを西行さんが歌に詠み、芭蕉さんは西行さんにならって句を作ろうとした。もう千何年も経っているのに、日本のかたすみで話題になった范蠡(はんれい)さんとその家族のお話でした。
63の西施(せいし)さんは、呉王・夫差(ふさ)さんの愛人ということになっています。どこから来たのかというと、宿敵の越から送られてきた愛の刺客でした。
彼女は目が悪かったのかもしれませんし、ただもったいぶっていたのかもしれません。とにかく、スカッと割り切れた現代のアキバ系アイドルではなくて、何だかゆっさり・もっさりしています。
少し病気がちだったそうで、しんどそうな顔をしました。眉を○○め、顔をしかめた姿が美しかったそうです。それが評判になったそうで、うわさを聞いた街の女の人たちは、わざとしんどそうな顔をして、「少し見えにくいかしら」「眉間にしわは出ているかしら、そしたら私も美人になれる!」というふうになったそうです。
二千年以上前の人なのに、現代日本でもまだ生きていることばです。すごいですね。
そして、現代の日本では、教養のある方たちが、「私も、お恥ずかしい限りですが、少し同じようにやらせてもらっていいですか」という時に、「○○みにならってやりましょう」などというふうに使います。なかなかそういう使い方できないですけど、まだ生きている日本語だと思います。《荘子・天運》
* 范蠡(はんれい)……春秋時代の越の功臣。勾践(こうせん)を助け、呉王・夫差(ふさ)を討って会稽の恥をすすぎ、上将軍となったが、のち去って斉に行き、姓名をかえて、さらに陶に行って陶朱公(とうしゅこう)と自称し、巨万の財をたくわえたという。
それで、最後の近江ですけど、芭蕉さんは、いろんなところで「近江」の風景を探していて、日本の各地でそれによく似た景色を見つけると、何だかうれしかったんじゃないかなと思われます。おそらく象潟に出かけたときも、きっとしっとり、雨の降る湖みたいな感じで、そ既視感がうれしかったことでしょう。
うれしい気持ちは発想は刺激して、秋田の象潟から近江、さらに遠い中国の南の国の美人さんへと思いはめぐり、有名な句も作ったのではないですか。
ものすごい結びつきだなと、芭蕉さんの近江びいきに嫉妬したりします。発想の源泉に近江があった。伊勢の海ではダメだし、伊賀盆地はあまりに近しい存在であった。でも、「どうして故郷の三重県・伊賀地方じゃなかったの!」と、悔しくなります。けれども、湖のある風景に何かを感じたんでしょうね。そりゃ、水のあるところは楽しいもんな。
★ 答え 62・名(たいめい) 63・ひそ