甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

浜の月夜(柳田国男) 1920

2020年08月20日 06時13分27秒 | 本と文学と人と

 もうお盆は過ぎてしまったけれど、自分でお盆のお祭りをしたという体験がないせいか、いつもいい加減です。今年は仕方がなかったけれど、ここ何年かでも、お盆らしいこと、やれてなかったと反省します。

 父の初盆の時、ちゃんと火を焚かなきゃいけなかったのに、私はボンヤリしていましたし、とうとう誰も火をたかないままにしてしまいました。

 うちは核家族で、しかも父のお骨はずっと仏壇に飾られているから、いつも家にいるといえばいるんだけど、それでも、父だって、「せめて普通のおうちみたいにして欲しかったな。」と思ってるかもしれません。

 今年は、実家にも帰れなかったし、お祈りもちゃんとできませんでした。お父さん、すみません。また今日からでも、お父さんのことを思い出して、お祈りします。これは口だけではありません。ちゃんと思っています。来年は、人並みに玄関に火を焚きますよ! お父さんはいつも早起きして、玄関で火を焚いてましたもんね……。

 というのは、和歌山の友だちが13日から3日間迎え火、15日からは送り火もすべて自分でしているというのを教えてもらって、昔から人々がしていた伝統行事を今は自分と同世代の人たちが中心となって行っているのを知ったからでしょうか。

 金沢の友だちは、日本海側の人だから、7月にお盆が来たと言っていました。妻の妹さんは、山形の鶴岡に嫁いでいますが、鶴岡でもひと月前にお盆の行事をしていました。町は花火大会やら、精霊流しやら、町全体で亡くなった人たちをしのんだことでしょう。

 そこに、ついこの間までいた家族が、今はここにいない不思議。同じ空間の中を私たちは寝起きしているのに、どういうわけか、その人がいない。その不在感がたまらなくて、年に何回か、この世にある私たちはそこにいない人をしのぶ期間を持つようにしている。

 日常生活の中では、不在感はどこかに置き忘れてしまいます。けれども、日本人全体としては、1945年までの戦争の空虚感と家族がいないこととをないまぜにして、コロナの夏も、みんなでお祈りの期間としたのですね。私自身はちゃんと火を焚けなかったけれど。


 今からちょうど100年前、45歳の柳田国男さんは、朝日新聞の取材で東北の旅に出ていました。八戸から南へは、バスみたいなのはなかったんだろうか。ずっと歩いて取材していたのか。そして、目的地はどこだったのか。

 『雪国の春』(1928)という本は持っているのに、すべて読み通していないから、そこだけしかわからないのですが、とにかく柳田さんたちは小子内(おこない)という集落にたどり着きます。東北の町なのに、地名からして先住民族系の地名で、なかなか由緒のあるところみたいでした。

 お盆の期間中は、昔は旅館であっても人は泊めなくて、お盆の行事をせねばならなかったようです。けれども、歩き疲れて飛び込んできた一行を、旅館の人々は受け入れ、面倒だけれども、仕方がないからおもてなしをした。主は若い人で、その奥さんも「親切は予想以上であった」ということでした。

 お盆だから、生臭ものがなくて、精進系の食べ物しか用意できないということでした。主は、海が目の前にあるし、漁でサカナを獲ってきてそれを旅館に出すサカナ自慢の民宿みたいなところだったのかもしれません。

 何か食べさせてもらい、お風呂にも入れてもらい、夜はお盆だから、そこで行われるという盆踊りを見せてもらいに行きました。

 街道沿いの曲がり角のところで、五十軒の家々から、女の人だけが踊る資格がある踊りがあるようでした。男どもは、女たちが歌い踊る姿をじっと見ていたんでしょうか。そして、お盆が来たんだなあとでもしみじみ思ってたんでしょうか。

 太鼓も音楽もありません。照明もちゃんとしたものはなかったかもしれない。街道を照らす灯りがあるのか、それとも提灯持参で参加しているのか。男どもがそれぞれ提灯を持ってきたのか。

 この辺では踊るのは女ばかりで、男は見物の役である。それも出稼ぎからまだもどらぬのか、(女たちは?)見せたいだろうに腕組みでもして見入っている者は、われわれを加えても二十人とはなかった。小さいのを負ぶったもう爺が、井戸の脇からもっと歌えなどとわめいている。

 不思議な盆踊りなんです。町内会とか、商工会とか、政党とか、そういうのは一切関係のない、自然発生的な踊りで、伴奏もない。ただ女の人たちが、不思議な文句を口ずさみ、その声が合わさってコーラスになり、そのコーラスに合わせて、一年ぶりに手と足を動かしている。

 彼女たちの歌う文句を知りたい。目の前で歌っているし、それは聞こえるのだけれど、意味がとれないのです。

 何て歌うのか文句を聞いていこうと、そこら中の見物と対談してみたがいずれも笑っていて教えてくれぬ。中には知りませんといって立ち退く青年もあった。結局手帖を空しくしてもどって寝たが、何でもごく短い発句ほどなのが三通りあって、それを高く低くくりかえして、夜半まで歌うらしかった。

 百年前の日本のとある集落で、こんなことが行われ、全国紙で伝えられた。それはもう珍しいことではあったはずです。けれども、みんな心惹かれるものがあった。何やらゆかし、という気分になれたのかな。

 中部地方では、富山県のおわら風の盆とか、岐阜県の郡上八幡の徹夜踊りとか、今でも過去から引き継いできたものを継続しているところがあって、懐かしいのか、一目見たいのか、観光客は各地から押し寄せたりするみたいですけど、今もみんな心のどこかで惹かれるものを感じている。

 柳田さんの旅からちょうど百年、この文章に私が触れてから四十五年以上経過しています。お盆の行事は今も各地で行われ、みんなが家族をしのんでいる。その気持ちは同じなんだけど、伝えられなかったものもあるし、変わっていくものもある。

 それから六年後、ふたたび柳田さんは小子内(おこない)を訪ねてしまうのです。



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