甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

1920年ころの3人、みんな生きてた!

2020年08月18日 18時39分47秒 | 本と文学と人と

 1918年の1月から、22歳の賢治さんは、進路で悩んでいたそうです。おうちのあとを継ぐのか、それとも徴兵検査を受けるのか、考えねばなりませんでした。

 彼自身の信仰も深まっていました。国柱会という実家の宗教とは違う世界にどのように進むのか、東京で病気がちの妹さんをどうすべきか、お父さんとの関係、自らの進路など、あれこれと引き裂かれていた。次の年には妹さんは入院してしまいます。それから彼女は故郷に帰って、しばらく女学校の助手みたいなのもするんですが、1922年には亡くなってしまう。

 賢治さんは、盛岡高等農林に研究生で残り、そのまま地元で生きていくことになります。それにしても、自分の進路がなかなか見つからない。

 1920年の5月に、研究生も修了して、宗教・妹の看護・お店のお仕事の見習いみたいなのをさせられてしまう。賢治さんは24歳です。進路が決まらない若者は、個人的にやりたいこともあるだろうけれど、とりあえずやれるところでしばらくは自分の方向性が見つかるまで、チャンスを見図らねばなりませんでした。妹さんが家にいるから、彼女を見ている分には安心だったでしょうか。でも、彼女の体調があまり良くないから、心配ではあったでしょう。


 東京の深川に住んでいた関根正二(せきねしょうじ)さんは、1920年にはもうこの世にはいませんでした。

 前の年の1919年の6月16日に20歳と2ヶ月で亡くなっていたんでした。スペイン風邪でした。たくさんの若者の命が奪われたということでした。いろいろと精力的に絵を描き、友だちにハガキや手紙を書き、自分の方向性を探していた。肖像画、風景画、スケッチ、走り書き、すべてが模索の後を示しています。

 宗教的な救いを探そうとする絵も描いていて、何だか日本のルオーになれそうで、ぜひそちらも探ってもらえたら良かったのに、そういう作品を書き続ける時間が彼にはありませんでした。

 1919(T8)年1月25日の友人へのハガキ、
 暫くです。いろいろ失礼しております。僕は十二月二十七日から肺炎で寝ています。一時は心配しました。現在もまだ外出はできません。
 どうしてこうまで身(からだ)が悪いのかと悲しくなります。暖かくなるにつれて好くなる事とは思っている。赤ちゃん大切に。よろしく。

 しんどそうな内容でした。これが同じ友だちへの6月のハガキでは、
 先日は失礼しました。変りもない事と思います。相変わらずぶらぶらです。その内に何か仕事をします。
 逢いたいが、電車賃がないからその内出かけます。奥様によろしく。赤ちゃんを大切に。

 友人のところには、しばらくしたら彼が亡くなったという知らせが届いたでしょうか。なぜ、そうなったのか、どうして彼が命を落とさねばならなかったのか、友人はどうにもしようがないことではあるけれど、悔しかっただろうし、正二さん自身、どうして、という気持ちもあったでしょう。


 1919年の12月、44歳の柳田国男さんは貴族院書記官長を辞任します。翌年の7月に朝日新聞の客員となり、今までも仕事で日本各地を旅行し、地域の大切さ・地域のことばを聞かせてもらいたいという気持ちが強くなっていたところで、仲間たちと東北旅行に出かけます。そのあれこれは、朝日新聞に「豆手帖から」ということで連載させてもらえたようです。

 東北本線は青森まで伸びていたでしょうか。もうどこの村に行かせてもらっても、いろんなことが聞けたと思われます。一つ一つが新鮮だし、その土地ならではのことが生き生きとそこにあったでしょう。

 青森へ行く途中に大きな漁港の都市の八戸という町があります。けれども、鉄路は青森をめざしているので、市街地からは遠いところに駅ができていた。仕方がないので、市街地に向けて支線が作られた。

 1894年(M27)から、少しずつ海岸線沿いに伸びていき、八戸の市街地から更に南へと伸びていった。海岸線沿いには、漁港やら、鉱物資源やら、それなりに需要はあったし、青森から岩手県に入るのですが、南には久慈という町もありました。

 昔は、道路網は整備されてなかっただろうし、港の町は、海伝いで発展していて、八戸から南へ、久慈、宮古、山田、大船渡、気仙沼(宮城県)、石巻とつながっていたことでしょう。これらの町が鉄道でつながったのは、そんなに古いことではなくて、ごく最近のことでした。

 でも、これらの鉄道も、2011年にズタズタに寸断され、そこから9年の歳月が経ちましたけど、未だに海沿いに南北を走り抜けることはできていないと思われます(南北に海伝いに鉄道で走れたらいいのに!)。

 そういうところだから、そういうところこそ、何かがあると目をつけて、人のいかないところで、何かドラマは起きないかなと、柳田さんたちは、八戸から南へ下っていきました。

 そこで不思議な盆踊りを見て、「浜の月夜」というタイトルで新聞に記事を載せました。

 1920年に不明だった部分は、数年後に再度、訪ねるということで解決するのですが、ここでも柳田さんの文学性が生きていて、100年後の私たちも、改めて見直していきたいところがあります。[★ つづく]

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