ナサニエル・ホーソーンさんを、私は小学生の時から知っていました。
だから、私は賢かった? のではありません。小学生のころの私はエッチな子どもでした。国語の教科書に出ていたから、うろ覚えで何となく心にとどめておいたと思われます。
高校の時にも、対訳版を南雲堂という英語関係の出版社の参考書を買い、勉強もしようとしました。いつ買ったのか、残念ながらメモがなくて、本そのものにもいつ発行した本なのか、奥付がありませんでした。残念です。
70年代の後半だと思われますが、どこで買ったのやら。
他のお話は、肝心の話も読んでないのだから、わかりませんね。でも、とにかく読みたい気持ちはあったんです。
ホーソーンさんの長編というと、「緋文字(スカーレット・レター)」というのがありますけど、映画にもなったと思いますが、これも読んだことはなかった。
どういうわけか、1993年の7月に岩波文庫でホーソーン短編集というのが出ていて、ずっと買いたいと思っていて、10月にやっとナゴヤの駅の大きな本屋さんで買ったようです。3か月待ちに待って買ったんですね!
出会いは70年代になるかならないか、60年代末か、はっきりわからないんですけど、とにかく物語には出会っていました。
そして、ずっと忘れていた。それを20年ぶりかで自力で獲得することができた。
だったら、すぐにかぶりつくように読めばいいのに、私らしいというのか、28年間放置していたみたいです。あっという間に時間なんて過ぎていきますね。
ブログにこの写真を貼り付けてから、あれ、何かに似ていると思って、これは「大いなる岩の顔」的な置物だと気づいて、昨日・今日あわてて本棚から取り出して来たところでした。
昨夜少しだけ読みましたが、坂下昇さんという方の訳は硬くて、軟弱な頭の私にはスンナリ入って来なくて、途中で挫折したので、今夜もう一度読み直しですけど、だいたいの話は知ってたんです。
小さい頃からお母さんに、あの岩山によく似た偉い人がやがてこの町から現われるのよ、と聞かされていたアーネストくんが、ずっと会えないままに大人になり、年老いてきて、会えずじまいであったとガッカリしていたら、実はアーネストくん自身が岩の顔によく似てしまっていた、という話でした。
もちろん、老アーネストは、そんなの認めなくて、だれかきっとふさわしい人がいるし、そういう人はやがて現れるのだとする、そんな話じゃなかったですか。
確かめようと今夜も読みたいですけど、確かめるために読むのではダメですね。オッサンになった私自身も、小さい時に読んだ物語に新たな世界を見つけなくちゃ。
見つかるのかな。それを確かめます。
小学校、中学校、コクゴの本には外国の物語がたくさん載っていました。
ホーソーンさんを始め、モーパッサン、ガルシン、O・ヘンリー、魯迅、もっともっとたくさん載せられていたと思います。
ヴェルレーヌ、ランボー、ホイットマンなどの詩もあったような気がするんですけど、カン違いかな。
今、コクゴはとてもドメスティックというのか、ローカルというのか、日本一辺倒になってる、ということはないのかな。
いや、そもそも、コクゴにおいては文学は必要ないという国家の方針があるわけですね。マニュアルや、儀礼文や、法律でも読んで、その意味を理解するように仕込むんでしょうか。それが読解力ということになるのかな。
いつか、その反動が来ると思うけれど、とりあえず今の方針はそういうことなんだそうです。「外国の文学なんて、一切必要ありません。」と、偉いお方は思っておられるのですね。
そうすると、これからの子どもたちは小さい時の自分の体験をもう一度読み直すこともできなくなるんですね。それはかわいそうです。小さい時って、わけのわからないものを、わかった気になったり、何となく説明できないけど好きになったり、理屈じゃないけど心に残ることってあると思うんだけど、そういうことも経験できないのか。
マニュアルを正しく理解して終わりだなんて、そうなったら、子どもたちは勝手に自分たちの楽しいものを探すでしょうけど、教科書はその窓口になることを放棄させられたのか。これは残念ではあります。世の中って、出会いで成り立っているのに、サッと読んでサッと理解することにどれだけの意味があるのか、私にはわかりません。ただ暗い気持ちです。
そりゃね、よその文学なんて読んだって、不必要な知識ばかり植え込むことになるから、そういうのはムダであって、実益大事、国内重視でいく、んでしょうね。
いよいよ人間も小さく育って、自分の生活だけを考え、人のことなんて考えられない子どもたちを育てようという作戦ですね。なかなか戦略的ですね。
せめてアメリカ文学でも、オッチャンの私は読んでいきたいです。もう、努力しかないですね。