甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

父とブログでコラボ バカな息子だ!

2016年05月27日 22時53分19秒 | 父たちの日記やことば
2011.3/13・日曜  10:43am  晴れ、けれども外には花粉がいっぱい

 今日の我々は、おとといまでの我々ではない。我々は2011年3月11日をずっと記憶していかなくてはならなくなってしまった。これが東南海地震の序曲なのかどうかはわからないが、日本という国の中では刻印されたものとなった。

 11日金曜の午後14時半ころ東北・関東の太平洋側でマグニチュード8.8という地震が起こり、それから1時間もたたずして大津波が海側を襲い、多数の行方不明者を出したのだった。1日半たった今でも被害の大きさが測りきれず、とにかく死者数は千人以上としているが、最終的には何千人という人数に及ぶものと思われる。

 そうした人的被害の他にも、鉄道・道路・建物の被害も甚大で、千葉のコンビナートで火災、栃木のホンダの工場で壁が落ちて死者が出たり、次から次へと被害の報告が届く。

 そして、昨日の昼ごろ福島の第一原発・第二原発ともに原子炉冷却がうまく進まず、第一原発の1号機が爆発。今のところこれは原子炉の爆発ではないとしているが、作業がうまく進んでいない一つの例であるようだ。安全といわれた原発の実態である。新潟の地震の時にも柏崎原発で事故が起こったが、地震の度に原発はその弱さを露呈し、いつでも大惨事が起きてもおかしくない状況である。

 こうした状況をただテレビを見ながら、これという感想を持つわけではなく、ただ見守るだけでこの週末を過ごしてきた。

 家の外にも、買い物とお米の精米に少し出ただけで、まったく外にも出ないで、ただ家に引きこもっている。だから、何ができるというわけではなく、何もできないまま、ただ不安を募らせている。どうしょうもない状況だ。

 こういう時は、思う存分仕事ををすればよいのだが、そういう気力もなく、ただ鼻をかんで、ゴハンを食べている。本当であれば、昨日は九州新幹線全通を祝う日であった。そうした祝賀ムードは全くなく、ただ悲惨でどうしようもない状況だけが続いている。どうしたらよいのだろう。全く無力なボクたちは、ただ嘆き、ただ慌てているだけなのか。

 悲惨な気持ち、無力感、無気力感いっぱいの日曜の午前だ。気分を換えて何かできるだろうか。不安だけれど、何かしなくてはと思う。




 以上息子が書きました。次は父がしめくくります。

2011.3/11・金曜 晴れから曇り・小雨時々あり
 昼食後、花の種を整理し、そのあとはコタツに入りくつろいでいた。地震警報と津波の警報も、宮城沖にて、8.4とか、震度8.8へと変更になる。テレビを一生懸命見ていたのです。17時30分ころ2人しての夕食準備になる。2人しての夕食です。食後は風呂になる。妻は食後の整理してからになる。嫁の実家のお母さんが心配にて、息子のところへ電話。21時15分、寝よう。


2011.3/12・土曜 晴れから午後くもり
 ラジオ体操(参加者少ないね)が終わってから、2人して家路へ。2人しての朝食になる。地震情報も続いています。津波まだ続いている。それに各地火災等ね。東北地方巨大地震M8.8、テレビ各局とも地震関連のニュースになっております。

 食後はコタツにてくつろいでいたが、下の方の整理清掃しましょう。妻はふき掃除もしてくださっていたが、夜具を干してから買い物へ行くのであった。自分は花の種を鉢にまくのであった。新芽の出るのを願いながらになります。


2011.3/13・日曜 晴れ、夜はくもっていた。
 子ども夫婦・孫たちが18時前に来て、19時前より夕食でした。食後は妻の誕生日のケーキもみんなで食べる。20時40分ころ帰っていくのです。それから風呂。そして妻もでした。記録もね。寝具の中、23時寝よう。




 そんな父の日々があった。私は、そんなことがあっただろうと思いつつ、忙しさのために母に電話をする程度で終わっていたのでした。

 父はそういう私のことなど何も書かず、ただ日々の記録を綴っていくのでした。

 息子の私は、どれくらい父のために何かをしてあげられたのか……。何もしてあげられないまま、そのまま父を見送ってしまった。今さら反省しても遅いけど、父は何を考えていたんでしょうね。なかなか読み取れないです。

 まだまだ父との対話、つづけなきゃいけませんね。


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