音楽評論家の吉田秀和さんがこんな文章を書いていました。吉田さんの故郷は新宮だというのです。私はそりゃもうびっくりしました。
新宮市は和歌山県の町ですが、私の心情的にはよく遊びに行った町なので、なんとなく三重県に関係のあるような気がしています。まあ、「熊野」という枠組みではもう同一地域です。そして、三重県の人たちがどれほど「熊野」を自分たちのこととして感じているか、それはものすごく不安です。はるか遠い、自分とは関係のない世界のような受け止め方しかしていないんじゃないのか、それが気がかりです。
高速道路もできました。みなさんどんどん出かけてくれると、私としてはうれしいんですけど、便利になったとはいえ、まだまだ「熊野」と三重県の同一化への道は遠いです。物理的には近くなっても、心理的にはなかなか距離があります。こういうのをどうしたら埋められるんでしょうね。少しずつみんなが行き来して埋めていくしかないですね。
……新宮のもうで餅(珍重庵)
日本には桜を愛する人は多く、また桜は日本中たくさんある。新幹線が西に向かうと、車窓至る所で桜が見えた。人家の庭、街の中、河の土手堤、山の中……。
私が今まで見た桜で一番強く印象に残っているのは安芸の国・宮島の厳島神社の裏で出合った桜。ある春の午後遅く、神社の裏山の道をたどると桜の木にぶつかった。思わず見上げると、限りなく深い青空を背に、一面花をつけた桜が何本か大手を広げて襲いかかるようにしてきた。怖かった。桜が生き物だということをあんなにハッキリ感じたことはない。豊麗で妖艶な趣。美しいものは恐ろしい。
もう一つ。これも西日本での話。私の母は東京日本橋小伝馬町の小間物商の娘、代々の江戸っ子だと威張っていた。逆に父は和歌山、それも半島の南端、新宮という小藩の藩士、つまりは紀州徳川家の陪臣の家の出。祖父のころ明治維新の廃藩置県で新宮を出てさらに田舎の紀伊勝浦という小村に移った。その折、新宮にあった代々の墓地を引き払い、勝浦から那智の滝に行く街道の脇、川関という小さな丘の中腹にしつらえた墓地に新しく墓を立てた。
私は二十歳のころまで父の故郷を訪ねたことがなかったが、親戚の重病人の見舞いに行った折、従兄弟の案内で新旧の墓地を詣でた。新宮のは廃寺の裏のたくさんの墓で埋め尽くされた小さな丘にあった。墓地といっても、そこはらんぐい歯がいっぱいの大きな口を開けたみたいに、いろんな形の墓石が立ったり傾いたり、乱雑に入り乱れているだけのこと。
でも、そこに立っていると、生きてる時は窮屈だったが、死んで初めて伸び伸びと手足を広げ、立ったり座ったり、おしゃべりしたり笑ったりしているといった光景を前にしている心地になった。淋しくも悲しくもない。墓参して上機嫌になったのはあの時だけだ。
一方、新しい墓地の方は街道からちょっと入った丘の中腹に段々を作り、そこに墓石を並べた格好のもの。中には江戸時代の円頂長方形の石も混じってはいるが、おおむねどれもほぼ同じような大きさの石が幾重にも横一線に行儀良く、慎ましやかに並んでいる。明るくすがすがしい墓地だった。
その片隅にすらりと姿の良い山桜が一本立っていて、機嫌よく歌でも歌っているみたいに花を咲かせていた。その花が、遠くない浜(それは太平洋だ)からの潮風にのって、ハラハラ散るのを見ていると、桜・丘・海・風といった自然と墓の下の死者たちとの間に何かが通じているのを感ぜずにいられない。
「いずれ僕もここに父や母や兄姉や妻などと同じように埋められに来ます。その時はよろしくね」と、私は桜にあいさつしておいた。ところが数年前、親類の誰かの埋骨に立ち会うため来たら、桜は影も形もなくなっていた。誰の仕業か。私は墓の前で裸で立たされているような気がした。
私が今まで見た桜で一番強く印象に残っているのは安芸の国・宮島の厳島神社の裏で出合った桜。ある春の午後遅く、神社の裏山の道をたどると桜の木にぶつかった。思わず見上げると、限りなく深い青空を背に、一面花をつけた桜が何本か大手を広げて襲いかかるようにしてきた。怖かった。桜が生き物だということをあんなにハッキリ感じたことはない。豊麗で妖艶な趣。美しいものは恐ろしい。
もう一つ。これも西日本での話。私の母は東京日本橋小伝馬町の小間物商の娘、代々の江戸っ子だと威張っていた。逆に父は和歌山、それも半島の南端、新宮という小藩の藩士、つまりは紀州徳川家の陪臣の家の出。祖父のころ明治維新の廃藩置県で新宮を出てさらに田舎の紀伊勝浦という小村に移った。その折、新宮にあった代々の墓地を引き払い、勝浦から那智の滝に行く街道の脇、川関という小さな丘の中腹にしつらえた墓地に新しく墓を立てた。
私は二十歳のころまで父の故郷を訪ねたことがなかったが、親戚の重病人の見舞いに行った折、従兄弟の案内で新旧の墓地を詣でた。新宮のは廃寺の裏のたくさんの墓で埋め尽くされた小さな丘にあった。墓地といっても、そこはらんぐい歯がいっぱいの大きな口を開けたみたいに、いろんな形の墓石が立ったり傾いたり、乱雑に入り乱れているだけのこと。
でも、そこに立っていると、生きてる時は窮屈だったが、死んで初めて伸び伸びと手足を広げ、立ったり座ったり、おしゃべりしたり笑ったりしているといった光景を前にしている心地になった。淋しくも悲しくもない。墓参して上機嫌になったのはあの時だけだ。
一方、新しい墓地の方は街道からちょっと入った丘の中腹に段々を作り、そこに墓石を並べた格好のもの。中には江戸時代の円頂長方形の石も混じってはいるが、おおむねどれもほぼ同じような大きさの石が幾重にも横一線に行儀良く、慎ましやかに並んでいる。明るくすがすがしい墓地だった。
その片隅にすらりと姿の良い山桜が一本立っていて、機嫌よく歌でも歌っているみたいに花を咲かせていた。その花が、遠くない浜(それは太平洋だ)からの潮風にのって、ハラハラ散るのを見ていると、桜・丘・海・風といった自然と墓の下の死者たちとの間に何かが通じているのを感ぜずにいられない。
「いずれ僕もここに父や母や兄姉や妻などと同じように埋められに来ます。その時はよろしくね」と、私は桜にあいさつしておいた。ところが数年前、親類の誰かの埋骨に立ち会うため来たら、桜は影も形もなくなっていた。誰の仕業か。私は墓の前で裸で立たされているような気がした。
熊野地方も、少しずつ開発の波は押し寄せています。立派な道ができます。時々洪水、台風、土砂被害が起きます。その結果、環境はよくなったように見えて、空洞化はするし、若い人はどんどんいなくなるし、自然は少しずつむしばまれているような気がします。
あれほど吉田さんを癒してくれた山桜は無残に切り倒されていた。道を造ったのか、風で倒れたのか、住民の邪魔だったのか、それとも地権者が土地を手放したのか……。日本の地方の典型的な「荒れ」でした。あまり地方は変わらないように見えて、どこかでずんずん崩れているような気がします。もう、ふるさとを求めて帰ろうとしても、帰るふるさとはないのかもしれない。
もう、ふるさとは自然のままにいてくれないのですね。もうこうなりゃ、ふるさとを作りに田舎へ入り込むしかないです。勝手にそこに入り込んで、これが私のふるさとなんだと宣言して、ふるさとをとりもどすしかありません。
那智勝浦町のサクラ、那智駅から歩いて那智の滝まで歩こうとして挫折したんでしたっけ。
……熊野川の河口!
……青岸渡寺と那智の滝! 絵に描いたような景色です!
……秦の始皇帝に命令されて来日した徐福さんの公園! ものすごくキレイになりました。
……新宮駅 駅弁コーナーがなくなっていて、ものすごくショックでした。
今年の春は東京近郊では桜がよく咲いた。ある日、若い友人たちが、近来とみに出無精(でぶしょう)になった私を東京に桜見物に誘ってくれた。東京に桜の名所は少なくない。私も子供のころはやれ飛鳥山だ、やれ上のだとあちこち桜見物に連れていかれた覚えがある。今年行ったのは六本木。そこの新しい名物の超高層ビル、そこの最上階近くからはるか眼下の桜たちを眺めながら、おいしい料理を楽しもうという趣向であった。
その摩天楼の海抜250メートルの展望台に上り、下を見下ろした時、私は吐き気がし、めまいがした。眼下に広がる光景は、かつて南紀の墓地よりもっと乱脈無秩序の極み。中にはしゃれた建物もあるのだろうが、これくらい大小高低、様々な色形の建物が足の踏み場もないくらい散らばり、固まり、日に照らされたり、暗い影を投げたりしているのを見て平気でいるのは無理というもの。
田舎の墓たちの笑い声の代わりに耳に入ってくるのはワアワア・ガヤガヤであろうと、これは音を通さないガラスの窓の中での想像の耳の働き。それら醜い箱が無数に散らばっている合間のあちこちに、薄紅色の哀れな桜の木が、何かのシミのようにへっつくばっている。かわいそうな桜。桜は、もしかしたら、その下に立って仰ぎ見るものではあるまいか、と、この時初めて気が付いた。
どこでも、そうとは限らないのかも知れない。現に私も昔々中学生のころ吉野に行って、無数の桜を高みから眺め、その景観を楽しんだことがあった。だが、ここ、東京・六本木の高層ビルからの眺めは、私にそれを許さない。この醜悪な茸(たけのこ)の群れのような建物の墓石が私の前に立ちふさがっているからだ。
コレガ オマエノ フルサトだ、吹き来る風がいう。
声なく立ちつくす私の姿を見て、親切な若い友人たちは大急ぎで摩天楼を離れ、青山墓地に連れて行ってくれた。そこにはありあまるほどの桜が連立していて、下から見上げる私を機嫌良く迎えてくれた。おまけに、驚いたことに友人たちは持ち運び用イスまで用意していて、そこに私を座らせた。
「待て、しばし、やがて、君も休むだろう」と、私の耳のそばで誰かが囁いたような気がした。そうだ、私も思い出したよ。
年々や桜を肥やす花の塵
その摩天楼の海抜250メートルの展望台に上り、下を見下ろした時、私は吐き気がし、めまいがした。眼下に広がる光景は、かつて南紀の墓地よりもっと乱脈無秩序の極み。中にはしゃれた建物もあるのだろうが、これくらい大小高低、様々な色形の建物が足の踏み場もないくらい散らばり、固まり、日に照らされたり、暗い影を投げたりしているのを見て平気でいるのは無理というもの。
田舎の墓たちの笑い声の代わりに耳に入ってくるのはワアワア・ガヤガヤであろうと、これは音を通さないガラスの窓の中での想像の耳の働き。それら醜い箱が無数に散らばっている合間のあちこちに、薄紅色の哀れな桜の木が、何かのシミのようにへっつくばっている。かわいそうな桜。桜は、もしかしたら、その下に立って仰ぎ見るものではあるまいか、と、この時初めて気が付いた。
どこでも、そうとは限らないのかも知れない。現に私も昔々中学生のころ吉野に行って、無数の桜を高みから眺め、その景観を楽しんだことがあった。だが、ここ、東京・六本木の高層ビルからの眺めは、私にそれを許さない。この醜悪な茸(たけのこ)の群れのような建物の墓石が私の前に立ちふさがっているからだ。
コレガ オマエノ フルサトだ、吹き来る風がいう。
声なく立ちつくす私の姿を見て、親切な若い友人たちは大急ぎで摩天楼を離れ、青山墓地に連れて行ってくれた。そこにはありあまるほどの桜が連立していて、下から見上げる私を機嫌良く迎えてくれた。おまけに、驚いたことに友人たちは持ち運び用イスまで用意していて、そこに私を座らせた。
「待て、しばし、やがて、君も休むだろう」と、私の耳のそばで誰かが囁いたような気がした。そうだ、私も思い出したよ。
年々や桜を肥やす花の塵
2009年の朝日新聞の「音楽展望」という連載記事にあった文章でした。音楽から大きく広がって、東京の町の乱雑さが書かれています。私のような田舎モノが東京に行かせてもらうと、ものすごくシステマチックで、キレイで、何事も至れり尽くせりで、お金があれば何でも買えて、軽快に人々は歩き去っていきます。みんな立派なIT道具をお持ちで、立っても歩いても、止まっても何かお仕事をしている、ものすごい町だと感心するだけなんです。
そこに住みたくなるのかというと、全くその気はなくて、何だかお金のない、シャレっけのない私には無縁の町だなと思うだけです。まあ、田舎モノの私には仕方のないことですね。それを無秩序な町だと見透かすのは、吉田さんのすぐれた眼力によるものなんでしょう。やがて、大震災のあと、吉田さんは何も書かないという宣言へつながっていきます。そして、吉田さんはお亡くなりになり、私たちは取り残されています。
東京はこれからさらに磨きをかけるのでしょう。でも、私には関係ありません。テレビの画面で眺めるだけにします。新宮はどうしましょう。ここは、これから何度も出かけて、今の私に見えるモノをまた見てきたいと思います。
そうです。私にできることは、私の地元を私なりの愛し方で、愛するしかないですね。
★ 弟は今、熊野でキャンプをしています。いつもは全く興味のない私ですが、この秋は何だか人恋しかったのか、「一緒にいこかな」と心にもないことを言ってしまいました。
そしたら、「また、今度な」と軽くいなされて、何だかションボリでした。
「ほな、来いや」と言ってくれても、また気のない返事をするだけですからね。弟くんとしても、まともに取り合わないのが1番なんですね。(2015.9.21)