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38【宋襄の( )】……無用のなさけ。「思いやり」を漢字一字で表現すると?
→宋の襄公が楚と戦ったとき、敵陣が整わないうちに攻めようと言った臣下の言を取り上げないで、敵が陣形を整えるのを待ってやり、折角のチャンスを逃したために、その後に戦いに敗れたという故事より。《春秋左氏伝》
宋(そう、紀元前1100年ごろ~紀元前286年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国です。都は商丘にありました。商(殷)王朝最後の紂王(ちゅうおう)の庶兄微子開(啓)が、宋(商邑)に封じられた国でした。
そのため、「宋人(そうひと)」は征服者である周人からはさげすまれ、おろか者とされていました。
中国であれ、日本であれ、先進国が滅ぼされると、その先進国をふみにじることが何かのステータスになったりするのでした。これは今も同じです。野蛮なスペインにふみにじられたマヤ王国とか、野蛮な大和民族にこきつかわれたアイヌの人々とか、もっともっとたくさんあるでしょう。
乱暴なアメリカ軍にメチャクチャにされたアフガン・イラクの人々とか、いっぱいいっぱいあるでしょうね。
田舎者の周の人たちにとって、先進国であった殷の人たちは、あこがれでありつつも、敵であったのです。とにかく暴力で倒すことはできたけれども、それだけでは十分ではなくて、日々バカにしなくてはならなかった。相手を踏みにじることでコンプレックスを解消しようとする、いやらしい人間がしてしまうことです。
★ 日本が、先進国を踏みにじったことがあるのか?
考えてみれば、朝鮮半島はずっと自分たちのルーツの1つであり、先進国でした。そのルーツに対して、天智天皇は挑み、豊臣秀吉も挑み、明治日本は侵略・合併を試みました。あれも1つの例ですね。
第二次世界大戦の中の、日本の中国侵略、これも1つの例ですね。邪馬台国が南や西の国と戦ったというのも、1つの例かもしれない。大和朝廷がエゾと戦った歴史も、侵略の例だと思われます。やはり、踏みにじるときはそれはもう無神経にムチャクチャにしたような気がします。日本人だけじゃなくて、どこかへ侵略するとき、人間はとんでもないことができるように、無理矢理自分を押し殺してやってしまうようです。それも人間の一面なんだと思います。できれば、抑えつけておきたい一面です。
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国の格としては、周によって滅ぼされた殷の帝辛(紂王)の異母兄微子啓が封じられた国であり、国力はそれほどではなかったけれど、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていました。コンプレックスの裏返しも人間の得意とするところです。
襄公(じょうこう)の時代に力をつけて、斉の桓公(かんこう・最初の覇者)が死んだ後に諸侯を集めて会盟しました。会盟というのは字のごとく、統治者同士が集まり、その中でランキング争いを平和裏に行い、席順やらを決めるのです。
そこにひねくれ者の楚の成王が参加し、不快に思ったのかどうかで、会盟にやってきた襄公を監禁してしまいます。もうメチャクチヤで、ジェントルマンとしてのふるまいなんてできなくて、ただ本能のままに暴れる王様です。仕方がないので襄公さんは一度謝罪して仲直りをします。けれどもすぐに雪辱すべく泓水(おうすい)で楚と決戦を行うことになります。
さて、楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機と宋軍の宰相が攻撃許可を求めます。けれども、襄公さんは許可をしませんでした。そんな卑怯なことはしたくなかったのです。そりゃ、ジェントルマンですから。みんなからあこがれられている先進国の王様ですから……。
今度は、楚軍が隊列を整えている所を見て、宰相は再び攻撃許可を求めます。けれども、襄公さんは許可をしません。相手はまだ戦える状態ではなかったのです。その結果、河を渡り終え、隊列を整えた楚軍は宋軍を叩きのめし、宋は惨敗してしまいます(→泓水の戦い)。
後で「どうして許可を出さなかったのか?」と質問された襄公さんは、「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つようなことはしないものだ。」と答えました。このエピソードから、身の程知らずのつまらないおもいやりを、宋襄の……と呼ぶようになったということです。
泓水の戦いの後、晋の公子である重耳さんが宋に亡命してきたそうです。重耳さんがなかなかの人物であることを見抜いた襄公さんは、敗戦直後にも関わらず、重耳さんを大いにもてなしました。この恩を重耳さんは忘れず、後に晋の君主になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援したそうです。重耳さんの死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても、宋は晋に対する友誼(ゆうぎ・いいイメージ)を捨てませんでした。
これで微妙なパワーバランスが生まれます。南の方の野蛮な国の楚が北上する。すると、真ん中にある大国・晋がこれを押し返す、という春秋時代中期の形が出来上がっていきました。
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襄公さんの後は、斉・楚・晋といった大国にはさまれた小さな国なので、自然と地位が低下して、最後の王である康王さんが暴君だったために、名声が低くなり、紀元前286年、斉によって滅ぼされてしまいます。
さて、この負け惜しみというのか、変なプライドというのか、それともただのボンヤリだったのか(たぶん、そうではありませんね。意識的なポーズなんですから)、とにかく宋の襄公さんは戦いのセオリーを無視して大敗してしまいます。でも、何となく、今の社会には必要な、かたくななまでの真面目さです。今は、誰も見ていないなら、どうせバレないから、ちょっとくらい大丈夫と、すべてなしくずしにして、わがまま放題にふるまうのが当たり前のようになっていて、バカ正直なのは流行ではありません。
だからこそ、私たちは宋襄さんを見習わなくてはならない。宋襄さんを笑うヤツは、みなコソドロ野郎と同じです。バカ正直で愚直に生きていきたいと思います。そして勤勉でなくてはならない。これがなかなかムズカシイ。
★ 答え……仁(じん)
★ さて、私はこの2ヶ月前に「宋襄の仁」を取り上げていました。ちゃんとチェックしていなくて、同じことの繰り返しです。ボケボケです。こわいくらい。
でもまあ、パソコンの中って、そんなことが起こりがちです(私だけ?)、振り返ったり、見直したりが簡単にできなくて、つい前々ばかり気になります。もとの原稿がしっかりしていればいいけれど、こちらはネタ帳がしっかりしていないので、フラフラと書いています。
たぶん、これからも同じような失敗をして、あとであわててしまうこと、ありそうな気がします。でも、とにかく現代に至るまでの中国の歴史と言葉を取り上げていきます。
個人的には、早く晋の国から出て行けたらと思ってますが、なかなか時間が取れなくて、前に進みません。(2015.11.28)
→宋の襄公が楚と戦ったとき、敵陣が整わないうちに攻めようと言った臣下の言を取り上げないで、敵が陣形を整えるのを待ってやり、折角のチャンスを逃したために、その後に戦いに敗れたという故事より。《春秋左氏伝》
宋(そう、紀元前1100年ごろ~紀元前286年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国です。都は商丘にありました。商(殷)王朝最後の紂王(ちゅうおう)の庶兄微子開(啓)が、宋(商邑)に封じられた国でした。
そのため、「宋人(そうひと)」は征服者である周人からはさげすまれ、おろか者とされていました。
中国であれ、日本であれ、先進国が滅ぼされると、その先進国をふみにじることが何かのステータスになったりするのでした。これは今も同じです。野蛮なスペインにふみにじられたマヤ王国とか、野蛮な大和民族にこきつかわれたアイヌの人々とか、もっともっとたくさんあるでしょう。
乱暴なアメリカ軍にメチャクチャにされたアフガン・イラクの人々とか、いっぱいいっぱいあるでしょうね。
田舎者の周の人たちにとって、先進国であった殷の人たちは、あこがれでありつつも、敵であったのです。とにかく暴力で倒すことはできたけれども、それだけでは十分ではなくて、日々バカにしなくてはならなかった。相手を踏みにじることでコンプレックスを解消しようとする、いやらしい人間がしてしまうことです。
★ 日本が、先進国を踏みにじったことがあるのか?
考えてみれば、朝鮮半島はずっと自分たちのルーツの1つであり、先進国でした。そのルーツに対して、天智天皇は挑み、豊臣秀吉も挑み、明治日本は侵略・合併を試みました。あれも1つの例ですね。
第二次世界大戦の中の、日本の中国侵略、これも1つの例ですね。邪馬台国が南や西の国と戦ったというのも、1つの例かもしれない。大和朝廷がエゾと戦った歴史も、侵略の例だと思われます。やはり、踏みにじるときはそれはもう無神経にムチャクチャにしたような気がします。日本人だけじゃなくて、どこかへ侵略するとき、人間はとんでもないことができるように、無理矢理自分を押し殺してやってしまうようです。それも人間の一面なんだと思います。できれば、抑えつけておきたい一面です。
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国の格としては、周によって滅ぼされた殷の帝辛(紂王)の異母兄微子啓が封じられた国であり、国力はそれほどではなかったけれど、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていました。コンプレックスの裏返しも人間の得意とするところです。
襄公(じょうこう)の時代に力をつけて、斉の桓公(かんこう・最初の覇者)が死んだ後に諸侯を集めて会盟しました。会盟というのは字のごとく、統治者同士が集まり、その中でランキング争いを平和裏に行い、席順やらを決めるのです。
そこにひねくれ者の楚の成王が参加し、不快に思ったのかどうかで、会盟にやってきた襄公を監禁してしまいます。もうメチャクチヤで、ジェントルマンとしてのふるまいなんてできなくて、ただ本能のままに暴れる王様です。仕方がないので襄公さんは一度謝罪して仲直りをします。けれどもすぐに雪辱すべく泓水(おうすい)で楚と決戦を行うことになります。
さて、楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機と宋軍の宰相が攻撃許可を求めます。けれども、襄公さんは許可をしませんでした。そんな卑怯なことはしたくなかったのです。そりゃ、ジェントルマンですから。みんなからあこがれられている先進国の王様ですから……。
今度は、楚軍が隊列を整えている所を見て、宰相は再び攻撃許可を求めます。けれども、襄公さんは許可をしません。相手はまだ戦える状態ではなかったのです。その結果、河を渡り終え、隊列を整えた楚軍は宋軍を叩きのめし、宋は惨敗してしまいます(→泓水の戦い)。
後で「どうして許可を出さなかったのか?」と質問された襄公さんは、「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つようなことはしないものだ。」と答えました。このエピソードから、身の程知らずのつまらないおもいやりを、宋襄の……と呼ぶようになったということです。
泓水の戦いの後、晋の公子である重耳さんが宋に亡命してきたそうです。重耳さんがなかなかの人物であることを見抜いた襄公さんは、敗戦直後にも関わらず、重耳さんを大いにもてなしました。この恩を重耳さんは忘れず、後に晋の君主になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援したそうです。重耳さんの死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても、宋は晋に対する友誼(ゆうぎ・いいイメージ)を捨てませんでした。
これで微妙なパワーバランスが生まれます。南の方の野蛮な国の楚が北上する。すると、真ん中にある大国・晋がこれを押し返す、という春秋時代中期の形が出来上がっていきました。
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襄公さんの後は、斉・楚・晋といった大国にはさまれた小さな国なので、自然と地位が低下して、最後の王である康王さんが暴君だったために、名声が低くなり、紀元前286年、斉によって滅ぼされてしまいます。
さて、この負け惜しみというのか、変なプライドというのか、それともただのボンヤリだったのか(たぶん、そうではありませんね。意識的なポーズなんですから)、とにかく宋の襄公さんは戦いのセオリーを無視して大敗してしまいます。でも、何となく、今の社会には必要な、かたくななまでの真面目さです。今は、誰も見ていないなら、どうせバレないから、ちょっとくらい大丈夫と、すべてなしくずしにして、わがまま放題にふるまうのが当たり前のようになっていて、バカ正直なのは流行ではありません。
だからこそ、私たちは宋襄さんを見習わなくてはならない。宋襄さんを笑うヤツは、みなコソドロ野郎と同じです。バカ正直で愚直に生きていきたいと思います。そして勤勉でなくてはならない。これがなかなかムズカシイ。
★ 答え……仁(じん)
★ さて、私はこの2ヶ月前に「宋襄の仁」を取り上げていました。ちゃんとチェックしていなくて、同じことの繰り返しです。ボケボケです。こわいくらい。
でもまあ、パソコンの中って、そんなことが起こりがちです(私だけ?)、振り返ったり、見直したりが簡単にできなくて、つい前々ばかり気になります。もとの原稿がしっかりしていればいいけれど、こちらはネタ帳がしっかりしていないので、フラフラと書いています。
たぶん、これからも同じような失敗をして、あとであわててしまうこと、ありそうな気がします。でも、とにかく現代に至るまでの中国の歴史と言葉を取り上げていきます。
個人的には、早く晋の国から出て行けたらと思ってますが、なかなか時間が取れなくて、前に進みません。(2015.11.28)