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石田英一郎[1903~1968]さんが、孔子さんについて文章を書いておられたのをメモしました。私はちかごろ忘れてるかもしれない。また、思い出さなきゃいけないし、本も読まなきゃいけないです。
何度もこの道をたどらないと、私みたいな浅薄な人間には浸透しないですね。
『論語』という書物は、もちろん、孔子の生きていた当時、つまり周の封建制のもとにおける社会体制下の、特定の政治思想・政治道徳、ないしは一般的な倫理思想、つまり君臣・父子の間といったようなものを反映した書物にちがいありません。あるいはまた、儒教の背景になった一定の世界観というようなものも、の書物の中には反映いたしております。
『論語』という書物は、もちろん、孔子の生きていた当時、つまり周の封建制のもとにおける社会体制下の、特定の政治思想・政治道徳、ないしは一般的な倫理思想、つまり君臣・父子の間といったようなものを反映した書物にちがいありません。あるいはまた、儒教の背景になった一定の世界観というようなものも、の書物の中には反映いたしております。
『論語』って、若い頃は味気ない感じがしていましたけど、今では全く違います。どうしたら、若い人にもしっとりするものになるのか、経験を積んでないとわからないものなのか、謎です。
私にいちばん大きな影響を与えた部分、それは、『論語』の中にみられるところの、時代を越え、あるいは文化とか、民族とか、階級とか、そうした一切のものを乗り越え、しかもなお人間的な共感を誘うもの、自分自身にもごく身近に感ずるもの、ことばを換えて言えば、人間らしさ、あるいはヒューマンなもの、つまり、私などが今考えている不変の人間性というものに即した部分です。これは、なにも『論語』の全体にわたっているわけではありませんが、『論語』のいたるところに顔を出すこうした部分こそ、非常に大きな影響を私に与えたのであります。
石田先生、そんなに「ヒューマン」なもの、感じられるんでしょうか。言葉のやり取りではあるんだけど、二言三言の中の、それぞれの人物たちの余韻と言いますか、どういう背景でこの言葉があり、どういう経緯で取り上げられたのか、細かいことなど書いてありませんから、後の私たちが、それに触れ、その余韻で、その後味がずっと残っていく、そういうのがヒューマンというんでしょうか。とにかく、お互いへの思いやりは感じられますね。
この文の格調の高さというようなものには、終始一貫して、非常にひきけられるものを感じております。
例えば、だれでもご存じの、『論語』の巻頭の
「子曰はく、学びて時にこれを習ふ、また悦ばしからずや。」とか、
「朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。」
「人知らずして、慍みず、また君子ならずや。」
といったようなことばなどは、どんな時代を通じても非常にひかれるものがあると思いますし、格調の高さの例で申しますと、
「詩三百、一言(いちげん)もってこれを蔽(おお)ふ、曰はく思ひ邪(よこしま)なしと。」
というような有名なことばなどにも、非常に高い精神が現れているように感ずるのであります。
何かを学ぶことの尊さ、それを教えてくださったのは孔子先生でした。ついつい面倒だったり、やらされ仕事だったり、自発的なものになかなかならない。それを乗り越えて、自分のものにする歓び、自分が変わっていける楽しさ、新しい世界が自分の中から湧きおこる感じ、それは進んで飛び込まないと開けていきません。
仲間と一緒にあること、同じ空間にいるのも仲間ではあるけれど、遠く離れていても、同じ心であれば、ずっと仲間でいられる。そういうのを大切にする気持ち。
もちろん、大抵のことは他人からは無視されるのは当たり前だから、焦らず、いら立たず、コツコツ生きることの大切さ、そして、心に邪悪なものを絶えず捨てようとする心がけ、そういうのをはるか昔に考えてくださったのが孔子先生でした。
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忘れてました。原点回帰しなくちゃと、抜き書きしてみました。