甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

親鸞さんのことば

2025年02月06日 08時45分07秒 | 本読んであれこれ

 倉田百三さんの『出家とその弟子』(1916・T5→1949・S24 新潮文庫)を時々読んでいます。ずっと読んでいるわけではなくて、とぎれとぎれです。

 今読んでるところは、遠くの土地からはるばる親鸞さんをたずねてやってきた人たちとの問答のところです。当然のことながら、親鸞さんから宗教の奥義みたいな、特別な何かを教えてもらいに来ています。それを見つけたくて、わざわざ旅してきたようです。

 何だかわざわざ旅してきたら(その前から?)、お土産みたいな、得したような、その人だからこそ聞かせてもらえた、そんなものを求めてしまいます。

 けれども、特別なコトバ・真理みたいなものがもらえるわけではありません。ライブって、全く行ったことはありませんが、あれと同じで、自分の知ってる曲を聴くために、何万円もかけてはるばる出かける。グッズも販売しているようですが、それらは記念品で、それよりも大事なのはライブの時間だと思うのですが、何時間か、演者と一緒の空間にいて、終わればそれぞれの家路につく。

 結果として、何万円というお金は消えてしまうのですが、それでも人々は次のライブをめざすことになるようです。みんなその一瞬のために、我慢して、貯金して、日々を過ごすことになるようで、それと何となく似ています。

 でも、このお話の中の若き修行僧たちは、真理がもらえるような気がしていたようです。そんな有り難いコトバがあるのでしょうか。「真言」みたいなのがあるんだろうか。

 親鸞 おおよそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六文字だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。おそらくあなた方が一生かかってもその底に達することはありますまい。人生の愛と運命と悲哀と――あなた方の一生涯かかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。

 人生の歩みの道すがら、ふり返るごとにこの六文字の深さが見えていくのです。それを智慧(ちえ)が増すと申すのじゃ。経書の教義を究めるのとは別ごとです。知識が殖(ふ)えても心の眼は明るくならぬでな。もし銘々方(めいめいがた)が親鸞に相談なさるなら、御熟知の唱名でよろしいと申しましょう。経釈の聴きぼこりは以ての外のことじゃ。それよりも銘々に念仏の心持ちを味わうことを心がけなさるがよい。

 私みたいな、堕落した不信心の者には、せっかく有り難いきっかけをいただいても、「ナムアミダブツ」の唱名にすべてをゆだねることができていません。素直でなくて、ひねくれ者ですから、その奥深さを自分の生活の中に取り込むことができていない。ほらまた、信心があるから奥義に入られるなんて、いつもリターンを求める心に動かされている。リスクに配慮しながらリターンを得るなんて、現世利益ばかり考えている。

 そんなんじゃ、いつまで経っても救われないかもしれないな。何もゆだねることができていない。信じる心がないのですから、ああ、救いようがないですね。



 人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生の様々の事象を見る目が濡れて来ます。仏様のお慈悲が有り難く心にしむようになります。南無阿弥陀仏がしっくりと心にはまります。それが本当の学問と申すものじゃ。

 またも私に当てはめてみれば、どれだけ人を愛しているのか、許しているのか、悲しみなんか感じたくもないと思っている。いつも不平不満を抱え、もっと欲望を開放したいなんて思ってるくせに、いざという時には何もできていない。自分の運命なんて、思いつかないし、仏様のありがたさ・存在感を感じようとしない。たまにはお寺に行かせてもらって、「なかなかステキな仏様だな」なんて、わかったようなことを言うだけです。

 たぶん、私も、心から仏様を求めてないと、当然のことながら仏様は来てくれないです。こんな超凡人の私ですから、きっかけを求めて、救われることをいつか期待していこうと思います。本を読ませてもらったのも、きっかけの一つなんでしょうね。

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