甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

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晋の文公デビュー! 放浪19年 中歴-31

2015年08月28日 05時48分22秒 | 中国の歴史とことば
41【唇亡びて(    )寒し】……お互いに助け合っているものの一方が滅びれば、他の一方もそれに従って危うくなること。唇◇輔車(しんしほしゃ)《春秋左氏伝》 

 晋の献公22年の話で、輔はほおの意、車はあごの骨の意、互いに持ちつ持たれつの関係にあること。晋の軍が虞の地を通って、虢の国を攻めたとき、虞の宮之奇(きゅうしき)が虞王を諫めて言ったことばから。

* 空欄に適切な漢字一字を入れてみてください。唇(くちびる)に近い部位は何ですか? 鼻の下? ほうれい線? 頬? 鼻? 内部でつながっているところという意味かなぁ。



 晋という国は、周の初代の王様・武王の子どもであり、2代目の成王の弟でもある叔虞(しゅくご)を始祖とし、初めは“唐”の地に封ぜられました(前1054)。

 都を翼においたということなので、現在の山西省南部の翼城県あるいは平陽県付近であるか、それとも中部の太原付近であたるようですが、特定できないようです。とにかく中国のど真ん中にあった国でした。今から3000年前の話です。

 太原(ターユアン)には有名な“晋祠(しんし、晋のほこら)”があって、邑姜(ゆうきょう、叔虞の母・武王の皇后)などがまつられて晋の発祥の地とされているそうですが、晋のスタートは翼城あるいは平陽県付近だったらしいです。叔虞の次の世代から“晋侯”を称するようになります。

 晋は、周の流れをくむ国なんですね(春秋時代の国はみんなそうかもしれない)。どこの国も徳川御三家と譜代大名ばかりで、外様大名がいない(外様を許さない)大陸だった。江戸期の日本はもう少し外様を許しましたけどね。でも、その外様はいつつぶされるかわからないのでハラハラドキドキだったんでしょうけど……。



 とにかく、すべての国を自分につながる人々が治めないと安定しないのが中国だったのかもしれません。アジア的ですね。殷(周の前の王朝)につながる人々の国の「宋」や夏(殷の前の王朝)につながる人々の国「杞」などが特別で、たいていの国はみんなゆかりの国々にしなくてはいけないらしいのです。

 今だって、習近平さんがトップだから、下の人たちは切られることはあるでしょうが、せりあがってくる時には近平さんとのつながりでトップに近づいてくるわけだから、何事も人脈というのが大事ということです。

 アメリカでもごく最近は世襲やら、旦那の後を妻がつぐという形が生まれていますが、人脈や姻戚関係がものをいうのではなくて、基本的には人材の力がものをいう社会だろうと思われます。いや、アメリカもアジア的になりつつあるのかな? やがてはアメリカさんもブッシュ王国とかになるのでしょうか。まさか、そんなことはないと思います。でも世襲はあるらしい。昔、勝海舟さんたちが初代大統領ワシントンさんのご子息は? と質問して、そんなのわからないよ、という答えにビックリしたあの国も、アジアとつきあって150年経過して変わっていくかも……。

 さて、建国から200年以上が経過した春秋時代の初め、文侯の子・昭公が立ちました。文侯の弟・成師は首都“翼”に近い大邑“曲沃(きょくよく)”に封ぜられます(前745)。彼は“曲沃の桓叔(かんしゅく)”と呼ばれて、大いに人心を掌握して勢力を拡大したので、「晋の乱るることそれ曲沃にあるか」とうわさされるようになります。

 やがて、分家が本家を乗っ取るのですが、こうしたお家騒動は人間社会には常について回ります。ただ、いっぺんにすべてが決まるわけではなくて、少しずつ力をためて、少しずつ本家のスキを見つけて入り込んで行かなくてはならないのでした。

 ああ、本当に国のトップに立つというのは、時間と労力の必要な作業です。日本ではあいかわらず、吉田茂さんにつながる人とか、岸信介さんにつながる人とか、先祖たちが築いたものをそのまま借り受けている人たちがプリンスとしてかつがれています。それをどうこう言うのはヤボというのかムダというのか、日本もアジアなんだから仕方のないことなのです。国のトップに立つには先祖から代々努力してきた地位と力がものを言うわけですね。

 60年あまり、3代にわたって、翼城の宗家と曲沃城の分家が公位をめぐって争います。血みどろの争いというわけですね(それを生き抜くタフな精神が必要です)。最終的に分家の曲沃の武公が、翼城に入って、晋を統一したのは前679年のことでした。745-679=66ということですね。

 前676年、献公(分家が宗家を乗っ取った二代目)が即位すると、晋の大夫・士蔿(しい)が「もとの晋の公子(王子様)がたくさんおられます。今この王子様たちのお命を奪わない限り、国はやがて乱れてしまうでしょう」と忠告したために、諸公子はことごとく殺され、都の絳(絳県)に城郭を築き、人心の一新が図られました。

 しかし、なお国政は安定せず、“驪姫(りき)の乱”が発生して、太子・申生(しんせい)は自殺に追い込まれ、公子・重耳らは出奔することになります(前655)。文公・重耳(ちょうじ)が19年にも及ぶ諸国流浪を経て、晋侯になるのは前636年でした。文公の出現によって、初めて晋国は政局が安泰となり、覇者としての実力を蓄えるようになっていきました。


* 驪姫(りき)の乱……献公がりきという側室をもらって、2人の間に子どもが生まれると、当然のこと中ながら母親は自分の子どもを王位に付けたいと考え、あれこれと策を練って、別の女の子の兄たちを陥れようとするのです。

 どうしてこういうパターン通りのことをしてしまうんでしょうね。その権力闘争の材料にされてしまう子どももかわいそうだし、追い詰められる兄たちも不幸です。でもしかし、それを生き抜いて王になることこそ人の世で生きる勝ちがあるのかもしれません。そうした権力闘争の渦中にあるということも、やはり運命的なもので、選ばれた人たちだけが参加できるのです。私みたいなノホホーンとした者には参加できない権力者レースなのですね。

 参加できないとなると、私は残念だけど、そこに参加せざるを得ないというのはかわいそうなことでもあります。どっちにしろ、そういうのを運命というのかもしれないです。

[答え]41・歯……くちびるほろびて「は」さむし!


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