1931年、私の父や妻のお母さんが生まれたあたり、昭和の一桁ころ、賢治さんは手帳に『雨ニモマケズ』の詩を書いておられたそうです。2年後には亡くなってしまうので、その生涯の最後のところで、賢治さんはある出会いを経験されています。
弟の清六さんが『兄のトランク』(ちくま文庫)で次のように書いておられました。
昭和4年の春、ぼくとつそうな人が私の店に来て病床の兄に会いたいというので二階に通したが、この人は鈴木東蔵という方で、石灰岩を粉砕して肥料をつくる東北砕石工場主であった。兄はこの人と話しているうちに、全くこの人が好きになってしまったのであった。
しかもこの人の工場は、かねて賢治の考えていた土地改良にはぜひ必要で、農村に安くて大事な肥料を供給することができるし、工場でも注文が少なくなって困っているということで、どうしても手伝ってやりたくなって致し方なくなった。
そのために病床から広告文を書いて送ったり、工場の拡張をすすめたりしていたが、だんだん病気も快方に向かってきたので、その工場のために働く決心を固め、昭和6年の春からその東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめたのである。
ということだそうです。ここから賢治さんの晩年の活動がつづいていくんですね。だから、うちの奥さんの実家のある町には賢治さんの晩年と石と肥料・土の博物館があるようです。
この鈴木東蔵さんという人は、賢治さんは何度も手紙のやりとりをしているようで、ちくまの全集ではそれらが載っていました。私は研究者ではないので、たくさんあったんだねえと、賢治さんと私の奥さんとの地元の関係を知り、かすかにつながっている自分を感じたりしたんです。
うちの奥さんのオジイサンは、町の農協に勤めておられたそうで、農業と肥料を考えていく中で賢治さんとつながることがあり、賢治さんから一通のハガキをもらったということです。
そういえば、彼女のオジイサンの写真、みせてもらったことがないですね。見せてもらったのかな。とにかく、一度訊いてみます。おばあちゃんとおじいさんのお話、うちの奥さんが書いてくれるといいんだけどな……。
妻の実家には賢治さんのハガキがある。というお話を聞き、ぜひ彼女のおうちに行って、そのハガキを探したいと、去年の夏、東北の旅に出ました。あれこれと家探しをさせてもらったけれど、とうとうそのハガキは見つかりませんでした。
どんなことが書かれていたのか、どんな関係だったのか、興味があるし、賢治さんのお姿を思い浮かべられるよすがになると思ったのに、それはありませんでした。とても残念な感じです。
もう見つからないし、どこかに捨てられてしまったのかもしれないけど、せっかくのつながりもたどることができないですね。まあ、仕方がない。あとは私たちがせいぜい残されたもので想像するしかないです。
それはもどかしい作業だけれど、せいぜいやっていきたいです。
清六さんの本からもう少し引用してみます。
ところが技師とはいっても、工場は経済的には最も苦難の時ではあったので、早速いろいろの広告や印刷物を文案して発送し、農業会や肥料屋や米屋をまわって注文を取り、金の工面までするのが主な仕事であった。
そのために以前農学校で着たシャツや外套を着て、次々とたくさんの店をまわり、農業会では頭を下げて懇願して注文を取るのが、なれないことなので恥ずかしく、心も痛むようだったと詩に書いている。私どもにはわざと少しも苦しい様子は見せなかったが、新しく正しい道を得たと思ったことが、実は別の思いがけない苦と悩みの因をつくることになったことを歎いているのが大体わかっても、いかんともできないのであった。
ああ、その時の何か、うちの奥さんの実家で見つかればいいんだけどなあ。もうないですか。いや、今年もふたたび岩手に行こうかな。夏がいいですね。それまではせいぜい全集を開いて、東蔵さんとのやりとりを見るしかないかな。
それにしても、賢治さんの人生、あと少ししかなかったのに、もうフルスロットルなんだから、それを思うとつらくなってしまいます。それが人生というものかな、その時まで私もがんばらなくちゃ!
弟の清六さんが『兄のトランク』(ちくま文庫)で次のように書いておられました。
昭和4年の春、ぼくとつそうな人が私の店に来て病床の兄に会いたいというので二階に通したが、この人は鈴木東蔵という方で、石灰岩を粉砕して肥料をつくる東北砕石工場主であった。兄はこの人と話しているうちに、全くこの人が好きになってしまったのであった。
しかもこの人の工場は、かねて賢治の考えていた土地改良にはぜひ必要で、農村に安くて大事な肥料を供給することができるし、工場でも注文が少なくなって困っているということで、どうしても手伝ってやりたくなって致し方なくなった。
そのために病床から広告文を書いて送ったり、工場の拡張をすすめたりしていたが、だんだん病気も快方に向かってきたので、その工場のために働く決心を固め、昭和6年の春からその東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめたのである。
ということだそうです。ここから賢治さんの晩年の活動がつづいていくんですね。だから、うちの奥さんの実家のある町には賢治さんの晩年と石と肥料・土の博物館があるようです。
この鈴木東蔵さんという人は、賢治さんは何度も手紙のやりとりをしているようで、ちくまの全集ではそれらが載っていました。私は研究者ではないので、たくさんあったんだねえと、賢治さんと私の奥さんとの地元の関係を知り、かすかにつながっている自分を感じたりしたんです。
うちの奥さんのオジイサンは、町の農協に勤めておられたそうで、農業と肥料を考えていく中で賢治さんとつながることがあり、賢治さんから一通のハガキをもらったということです。
そういえば、彼女のオジイサンの写真、みせてもらったことがないですね。見せてもらったのかな。とにかく、一度訊いてみます。おばあちゃんとおじいさんのお話、うちの奥さんが書いてくれるといいんだけどな……。
妻の実家には賢治さんのハガキがある。というお話を聞き、ぜひ彼女のおうちに行って、そのハガキを探したいと、去年の夏、東北の旅に出ました。あれこれと家探しをさせてもらったけれど、とうとうそのハガキは見つかりませんでした。
どんなことが書かれていたのか、どんな関係だったのか、興味があるし、賢治さんのお姿を思い浮かべられるよすがになると思ったのに、それはありませんでした。とても残念な感じです。
もう見つからないし、どこかに捨てられてしまったのかもしれないけど、せっかくのつながりもたどることができないですね。まあ、仕方がない。あとは私たちがせいぜい残されたもので想像するしかないです。
それはもどかしい作業だけれど、せいぜいやっていきたいです。
清六さんの本からもう少し引用してみます。
ところが技師とはいっても、工場は経済的には最も苦難の時ではあったので、早速いろいろの広告や印刷物を文案して発送し、農業会や肥料屋や米屋をまわって注文を取り、金の工面までするのが主な仕事であった。
そのために以前農学校で着たシャツや外套を着て、次々とたくさんの店をまわり、農業会では頭を下げて懇願して注文を取るのが、なれないことなので恥ずかしく、心も痛むようだったと詩に書いている。私どもにはわざと少しも苦しい様子は見せなかったが、新しく正しい道を得たと思ったことが、実は別の思いがけない苦と悩みの因をつくることになったことを歎いているのが大体わかっても、いかんともできないのであった。
ああ、その時の何か、うちの奥さんの実家で見つかればいいんだけどなあ。もうないですか。いや、今年もふたたび岩手に行こうかな。夏がいいですね。それまではせいぜい全集を開いて、東蔵さんとのやりとりを見るしかないかな。
それにしても、賢治さんの人生、あと少ししかなかったのに、もうフルスロットルなんだから、それを思うとつらくなってしまいます。それが人生というものかな、その時まで私もがんばらなくちゃ!