ラジオ体操がイヤになったのは、中学の時のことだと思う。
小学校までは、何ということもなく体操していた。カラダにいいことだし、カラダのあちらこちらを動かすということは、それなりに楽しいものだったはず。
中学でも、同じように体操をしようとしていた。いや、生意気なころではあるから、私なりにカッコつけてたか、人の視線を気にしつつ必死になっていないようにしていたかもしれない。自分のカラダを躍動させるなんて、そんな恥ずかしいことはできない。適当にやってりゃいいのさ、みたいな感じ。
ラジオ体操のテストみたいなのが行われることになった。テスト、ということであれば、難しいことはないのだから、人並みにカラダを動かせばいいか、と気持ちを切り替えて臨んだ。
ところが、「おまえは再テスト」ということで、みんなの前で再試験をされることになった。自分ひとりではなくて、何人かいたと思うけれど、何ともないこと・ありふれたこと・ラジオ体操でテストがあるなんて、そして、みんなの前で「手足を伸ばして」「ピタッと止めて」「テンポよく手足を連動させて」ということで再テストになるなんて! 何てことだろう。
私は、みぎ・ひだりが割とこんがらがる人だった。ラジオ体操は左右の順番みたいなのがあったので、そんなに左右の混乱を人に見せることにはならなかったけれど、バランス、テンポ、リズム、そういうのも割と苦手の方だった。何となく間が悪いのが私だった。再テストは、そんな私には地獄の責め苦だったような気がする。
必死になってラジオ体操の再テストを合格し(及第?)たら、もう汗だくになっていた。必死になって行うラジオ体操はとてもカラダに負荷のかかるタフな運動だった。普段どれだけ力を抜いて、イヤイヤ体操をしていたことか。
それからは、テンポが悪くても、手足が短くても(すぐ自虐ネタだ!)、メリハリをつけて運動しようとしていたけれど、今となっては、その体操もしなくなった。
ついさっき、たまたまつけてみたラジオで、体操の時間をやってたけれど、聞き入ってしまった。ラジオ体操第二は、寸止めみたいな動きがあって、なじめなかったけれど、今聞いてもさっぱり動きがわからなかった。ラジオ体操は第一をしっかりやるだけで私にはいいのかもしれない。
★ そんなことを考えた昨日(九日)の朝でした。夕方には気になって村野四郎さんの体操詩集というのを探してみました。本は持ってないし、どこで接したんだろうと思ったら、学校で習った詩だったんですね。
たぶん、そんなに興味も持てなくて、こんなことを表現してみるのも、詩というものなのかな、程度の感想だったでしょうか。でも、人はいろんな事柄・事象に飾られた言葉・巧みな表現を与えて喜んだりする生き物だから、詩というものが生きていく場があるのでしょう。
私は、どんな時に詩が必要なのかな、風景描写と感情表現とその時の記念・記録として詩を必要としたりするのでしょうか。
とりあえず昨日は、村野四郎さんを思い出しました。そして、少しだけ高校で読んだという記憶を、ほんの少し引き寄せられたけれど、すぐに手放してしまいました。
ついでに、YMOの「体操」というのをyoutubeで見てみて、いろんなアイデアのある人たちだけど、「体操」は何だかわざとらしくて、「こんなのイヤだ。もっと他にはないの?」と、ついつい、マイケル・ジャクソンがカバーしたという「ビハインド・ザ・マスク」というのも見てみました。
こちらは、曲そのものも好きなので、楽しく見られました。YMOの曲も、古びてしまった曲と、今でも何だか聞けそうな曲と、何が違うのか、よくわかってないんですけど、今でも日常的に何度も聞ける曲、そういうのはないのかな? YMOって、すごいことをしてたし、すごい勢いだったのに、今はみんなそれぞれの生活・それぞれの問題に向き合っていますね。みんな頑張ってもらいたいです。
そんなことを考えて、夕ごはんまでyoutubeをずっと見ていました。