高速道ではよそ見もせずに、ひたすら南をめざした。久留米、北九州、大分、福岡、そして鹿児島ナンバー、たくさんのクルマが次から次とやってきて、私たちのクルマを抜いてく。時折頑張って抜き返すこともあったものの、すぐにやる気がなくなって、走行車線で大人しく走ることにして、霧島の山々、鹿児島空港を過ぎると目の前に現れ、じーっと煙を吐き続け、姿形を変えていく桜島も適当にしか見なかった。
そして、鹿児島市に着いたら高速を降りて、指宿へのルートを探す。本来ならもっと大きなわかりやすい道が海岸近くにあって、それを知っていたような気もするのだけれど、路面電車に誘われて、ゴチャゴチャした市内を走った。鉄道オタクである私は、路面電車の撮影を妻にお願いして、トボトボと南への道を探すのだった。
やっと海岸通りに出て、錦江湾沿いの道を淡々と走った。海はきれいで、ここから南へと下がっていくにつれて見える桜島が私にはなじみの風景で、北側の町から眺める切り立ったような感じの桜島は、なんとなくなじみがなくて、無表情な感じであった。この海岸通りに出て、やっとカゴシマへたどりついたような気分になった。
シラス台地が海まで迫ってきていて、平地は海沿いに少ししかなく、さびれたような感じの町がつづき、左手に日本石油の喜入の原油備蓄基地が大きく海へ突きだしているのが見えたら、やっと鹿児島市のおわりで、そこからしばらくすると、指宿市に入ることができた。もうこのあたりは、私は住んだことはないのだけれど、五十数年の思い出の重なる町々なので、少し穏やかな気持ちになれた。
そして、指宿市といえば、開聞岳で、翌日の天気予報がよくないことは知っていたので、ぜひ今日のうちに開聞岳さんにご挨拶をしなくてはと、そのまま指宿の市街へ向かわずに、途中で横道にそれて、池田湖の方から先に南の方まで行き尽くして、それから回り込むように指宿市内へ北上しようと1人で決めて、細かいことはあまり言わないで一言だけ「池田湖から開聞岳を見よう。明日は雨になると言うし……」と、
そうしなければならないような言い訳をして、池田湖の湖畔でクルマを止めることになった。
7年ぶりに池田湖畔に立った。昔のイメージとだいぶ変わっていて、確かに湖はあるし、開聞岳はチョコンと見えているし、自然そのものは変わっていないようなのに、人々の姿がかなり変わった印象を受けた。
昔の池田湖畔といえば、いくつものお店が建ち並び、湖に向かってそれぞれの店が桟橋を設定し、ボートやお土産、おおうなぎの観覧施設などを設けていた。個々の店の呼び込みもしたたかなものであった。それが、今回はすべて取り払われていた。桟橋がどこにも見つからなかった。まさか違うところに出たのかと、あれこれ歩いて湖畔を回ってみると、コンクリートで作られた泳ぐ首長竜の形をしたイッシー像が見つかったので、たぶんこのあたりが1番かまびすしいところであったはずた。それらがすべてなくなり、お花畑となり、湖畔は静かに歩くくらいしかすることのない静かな公園となっていた。
私は、これは湖の環境をよくするために、余計な桟橋を取り払い、掘っ立て小屋同然の湖畔の土産物屋も取り壊し、きれいに公園に環境整備したのではないかという印象で、なかなか鹿児島県としても観光地の自然な姿を見せるようになったのだと感心をしたもので、しばらく湖にたたずんだら、十分満足して、いよいよ母の待つ家へ行ける気がした。
妻は、それどころではなくて、これから数日の母との対決に、プレッシャーがかかり重い気分で開聞岳どころではないようだった。
まあ、そんなことはおかまいなしに私は、開聞岳にご挨拶をしている気分で、視界の中にある時はずっと見続けて、視界から消えて背中側にあるときは開聞岳さんが自分たちを見てくれているような気分で運転をして、何とも言えない安心感・満足感を味わいつつ、運転をしていた。
今回も、このお山に登ることはかなわなかったけれど、いつか登ってみて、お山と対話をしてみたいと思う私だった。
そして、鹿児島市に着いたら高速を降りて、指宿へのルートを探す。本来ならもっと大きなわかりやすい道が海岸近くにあって、それを知っていたような気もするのだけれど、路面電車に誘われて、ゴチャゴチャした市内を走った。鉄道オタクである私は、路面電車の撮影を妻にお願いして、トボトボと南への道を探すのだった。
やっと海岸通りに出て、錦江湾沿いの道を淡々と走った。海はきれいで、ここから南へと下がっていくにつれて見える桜島が私にはなじみの風景で、北側の町から眺める切り立ったような感じの桜島は、なんとなくなじみがなくて、無表情な感じであった。この海岸通りに出て、やっとカゴシマへたどりついたような気分になった。
シラス台地が海まで迫ってきていて、平地は海沿いに少ししかなく、さびれたような感じの町がつづき、左手に日本石油の喜入の原油備蓄基地が大きく海へ突きだしているのが見えたら、やっと鹿児島市のおわりで、そこからしばらくすると、指宿市に入ることができた。もうこのあたりは、私は住んだことはないのだけれど、五十数年の思い出の重なる町々なので、少し穏やかな気持ちになれた。
そして、指宿市といえば、開聞岳で、翌日の天気予報がよくないことは知っていたので、ぜひ今日のうちに開聞岳さんにご挨拶をしなくてはと、そのまま指宿の市街へ向かわずに、途中で横道にそれて、池田湖の方から先に南の方まで行き尽くして、それから回り込むように指宿市内へ北上しようと1人で決めて、細かいことはあまり言わないで一言だけ「池田湖から開聞岳を見よう。明日は雨になると言うし……」と、
そうしなければならないような言い訳をして、池田湖の湖畔でクルマを止めることになった。
7年ぶりに池田湖畔に立った。昔のイメージとだいぶ変わっていて、確かに湖はあるし、開聞岳はチョコンと見えているし、自然そのものは変わっていないようなのに、人々の姿がかなり変わった印象を受けた。
昔の池田湖畔といえば、いくつものお店が建ち並び、湖に向かってそれぞれの店が桟橋を設定し、ボートやお土産、おおうなぎの観覧施設などを設けていた。個々の店の呼び込みもしたたかなものであった。それが、今回はすべて取り払われていた。桟橋がどこにも見つからなかった。まさか違うところに出たのかと、あれこれ歩いて湖畔を回ってみると、コンクリートで作られた泳ぐ首長竜の形をしたイッシー像が見つかったので、たぶんこのあたりが1番かまびすしいところであったはずた。それらがすべてなくなり、お花畑となり、湖畔は静かに歩くくらいしかすることのない静かな公園となっていた。
私は、これは湖の環境をよくするために、余計な桟橋を取り払い、掘っ立て小屋同然の湖畔の土産物屋も取り壊し、きれいに公園に環境整備したのではないかという印象で、なかなか鹿児島県としても観光地の自然な姿を見せるようになったのだと感心をしたもので、しばらく湖にたたずんだら、十分満足して、いよいよ母の待つ家へ行ける気がした。
妻は、それどころではなくて、これから数日の母との対決に、プレッシャーがかかり重い気分で開聞岳どころではないようだった。
まあ、そんなことはおかまいなしに私は、開聞岳にご挨拶をしている気分で、視界の中にある時はずっと見続けて、視界から消えて背中側にあるときは開聞岳さんが自分たちを見てくれているような気分で運転をして、何とも言えない安心感・満足感を味わいつつ、運転をしていた。
今回も、このお山に登ることはかなわなかったけれど、いつか登ってみて、お山と対話をしてみたいと思う私だった。