土曜の夜なのに、1人で伊勢の進富座という映画館へ行きました。映画館の支配人さんは、何だか緊張していて、いつもならゆったりクルマを止めさせてくれるのに、何だかピリピリしていました。どうしてだったのかな。まあ、進富座の興業ではなくて、会場を貸してるだけだから、そこで何かが起こるのはマズイと思ってたのかなあ。どうしてあんなにカリカリされていたんでしょう。不思議です。
ちょうど進富座に着いたころに、海側で低く花火が上がって、何かイベントがあるんだろうか。秋の花火って、珍しいなあと少しそそられたりしました。でも、すぐに止んでしまったので、何かの景気づけの花火だったんでしょうね。
さて、映画はドキュメンタリーでした。この2年くらいの辺野古の基地建設反対闘争を、反対側に立って丹念に追いかけた内容で、昨年の11月の沖縄県知事選がピークになっています。そこで少しだけ闘争に関わった人たちの努力が報われて、36万対26万で、自民党の推す仲井真候補に、同じく保守系の那覇市長だった翁長候補が勝利するのです。けれども、敗北後も政府・自民党は矢継ぎ早やに基地建設を急いでいて、現在も進行させつつある。それを止めようとする動きはあるけれど、政府は国民というのか、沖縄の県民の意思表示よりは、小の虫は殺して大の虫を助ける政策を推し進めようとしています。
けれど、大の虫はどこにいるのか? 考えてみると、維新の会がうるさい大阪にはいないです。原発再開の鹿児島にもいない。放射能のたれ流しの福島にもいないです。どうやら、東京のごく一部の人たちが大の虫であり、福島の原発から放射能が出ようが、鹿児島で事故が起ころうとも、愛媛で、福井で、新潟で、静岡で、青森で、どこで事故が起ころうとも、粛々と自分たちの決めたことをやっていこうとするようです。一部の大の虫が、大半の小の虫を食い物にしているのが、日本の虫事情です。よその国も同じようなものでしょうけど……。
それはまちがいない。彼らには国民の願いなんか耳に入らない、国民なんか眼中にない。そして、ごく末端で、政府に雇われた警察・機動隊・海保・工場関係者と、反対運動をする人たちが時にはいがみ合うのでした。そして、時にはどこかでつながることだってある。
映画は、その構造にも入り込んでいて、いがみあっているように見えるのは、実は仲間同士であって、本当の敵は遠くにいて、自分は我関せずで指令だけを出して終わりなのです。だから、映画はそんな遠くの人たちは写さないで、仲間同士がどうしたらこの問題を解決できるのか、どうしたら政府の暴走を止められるか、を問いかけているのです。
でも、答えは出なくて、とにかくみんなで1つになって、遠くで隠れているヤツをあぶり出そう、そのためにはみんなの力が必要だし、1人の脱落者も出してはいけないし、逮捕された人がいたら、みんなで取り返しに行こうと呼びかけるのでした。
ずっと建設中の基地の前で座り込みをするリーダーの人も、逮捕されたり、厳しい場面にもあっていることが最後の字幕で流され、病魔とも闘うことになったというのが出て、なんと人は戦わねばならないものか、とつくづく悲しくなったりしました。けれど、それでは何にもならないので、権力に屈せず、みんなの力を合わせて戦う、これしかないのだと思った次第です。
私は、大衆運動というのを少し諦めていた部分があったので、いや、それでも立ち向かうには、強い権力と対等にやり合うには、みんなの連帯しかないのだと思います。それは、ものすごくもろいし、すぐバラバラに飛び散ってしまうものだけれど、1点に集中することができたら、すごい力になるときもあるので、ぜひ、権力にはそれで立ち向かって行かなくてはならないのです。
ふたたび繰り返したいですけど、権力はいつも同じで、大切なのは自分たちの支配の永続性です。決して国民の平和の永続をもとめているわけではありません。これは、ソビエト政権であれ、中国共産党であれ、北朝鮮であれ、合衆国の民主党だって、どこもみんな同じです。
もちろん、日本の自民党政権も同じです。自分たちの政権が永遠に続くために、公明党でも、かつては敵であった社会党とでも、とにかくどんな形であれ、つづけて保持したい、これだけでやっています。そのためにすべての政策があるといってもいいくらいです。
恐ろしいことに、代替わりしても、めざすことは同じで、過去の亡霊のようなオッサンたちがいなくなっても、二世・三世の政治家さんたちは、同じことをめざし、過去の人たちがやってきたことを、多少は時代に合わせながらやっていくのだと思いました。
こんな連続性を持ち続ける人たちに、武器も持たず、ただ連帯を呼びかけて立ち向かうなんて、普通では考えられません。イスラムの過激派ならすぐに爆発テロを考えるでしょう。その方がてっとりばやい。なのに、武器も持たず、ただ涙と監視と声と行動と連帯とで向かっていく人々の姿を2時間たっぷり見て、私は少しだけ勇気づけられました。でも、大衆運動を信じる気にはなれませんでした。まだまだ本気になれていないのかも……。
この映画は、見る人の本気度を試しているのかもしれないです。私は、失格です。本気さがない。こんな私でも、いつか運動に参加しなくてはいけないと思います。私は政府関係者じゃないですからね。子どもや若者のために、年取った者が頑張らねばならない時はきっと来ると思うし、その日のために力をためておかなくては!
ちょうど進富座に着いたころに、海側で低く花火が上がって、何かイベントがあるんだろうか。秋の花火って、珍しいなあと少しそそられたりしました。でも、すぐに止んでしまったので、何かの景気づけの花火だったんでしょうね。
さて、映画はドキュメンタリーでした。この2年くらいの辺野古の基地建設反対闘争を、反対側に立って丹念に追いかけた内容で、昨年の11月の沖縄県知事選がピークになっています。そこで少しだけ闘争に関わった人たちの努力が報われて、36万対26万で、自民党の推す仲井真候補に、同じく保守系の那覇市長だった翁長候補が勝利するのです。けれども、敗北後も政府・自民党は矢継ぎ早やに基地建設を急いでいて、現在も進行させつつある。それを止めようとする動きはあるけれど、政府は国民というのか、沖縄の県民の意思表示よりは、小の虫は殺して大の虫を助ける政策を推し進めようとしています。
けれど、大の虫はどこにいるのか? 考えてみると、維新の会がうるさい大阪にはいないです。原発再開の鹿児島にもいない。放射能のたれ流しの福島にもいないです。どうやら、東京のごく一部の人たちが大の虫であり、福島の原発から放射能が出ようが、鹿児島で事故が起ころうとも、愛媛で、福井で、新潟で、静岡で、青森で、どこで事故が起ころうとも、粛々と自分たちの決めたことをやっていこうとするようです。一部の大の虫が、大半の小の虫を食い物にしているのが、日本の虫事情です。よその国も同じようなものでしょうけど……。
それはまちがいない。彼らには国民の願いなんか耳に入らない、国民なんか眼中にない。そして、ごく末端で、政府に雇われた警察・機動隊・海保・工場関係者と、反対運動をする人たちが時にはいがみ合うのでした。そして、時にはどこかでつながることだってある。
映画は、その構造にも入り込んでいて、いがみあっているように見えるのは、実は仲間同士であって、本当の敵は遠くにいて、自分は我関せずで指令だけを出して終わりなのです。だから、映画はそんな遠くの人たちは写さないで、仲間同士がどうしたらこの問題を解決できるのか、どうしたら政府の暴走を止められるか、を問いかけているのです。
でも、答えは出なくて、とにかくみんなで1つになって、遠くで隠れているヤツをあぶり出そう、そのためにはみんなの力が必要だし、1人の脱落者も出してはいけないし、逮捕された人がいたら、みんなで取り返しに行こうと呼びかけるのでした。
ずっと建設中の基地の前で座り込みをするリーダーの人も、逮捕されたり、厳しい場面にもあっていることが最後の字幕で流され、病魔とも闘うことになったというのが出て、なんと人は戦わねばならないものか、とつくづく悲しくなったりしました。けれど、それでは何にもならないので、権力に屈せず、みんなの力を合わせて戦う、これしかないのだと思った次第です。
私は、大衆運動というのを少し諦めていた部分があったので、いや、それでも立ち向かうには、強い権力と対等にやり合うには、みんなの連帯しかないのだと思います。それは、ものすごくもろいし、すぐバラバラに飛び散ってしまうものだけれど、1点に集中することができたら、すごい力になるときもあるので、ぜひ、権力にはそれで立ち向かって行かなくてはならないのです。
ふたたび繰り返したいですけど、権力はいつも同じで、大切なのは自分たちの支配の永続性です。決して国民の平和の永続をもとめているわけではありません。これは、ソビエト政権であれ、中国共産党であれ、北朝鮮であれ、合衆国の民主党だって、どこもみんな同じです。
もちろん、日本の自民党政権も同じです。自分たちの政権が永遠に続くために、公明党でも、かつては敵であった社会党とでも、とにかくどんな形であれ、つづけて保持したい、これだけでやっています。そのためにすべての政策があるといってもいいくらいです。
恐ろしいことに、代替わりしても、めざすことは同じで、過去の亡霊のようなオッサンたちがいなくなっても、二世・三世の政治家さんたちは、同じことをめざし、過去の人たちがやってきたことを、多少は時代に合わせながらやっていくのだと思いました。
こんな連続性を持ち続ける人たちに、武器も持たず、ただ連帯を呼びかけて立ち向かうなんて、普通では考えられません。イスラムの過激派ならすぐに爆発テロを考えるでしょう。その方がてっとりばやい。なのに、武器も持たず、ただ涙と監視と声と行動と連帯とで向かっていく人々の姿を2時間たっぷり見て、私は少しだけ勇気づけられました。でも、大衆運動を信じる気にはなれませんでした。まだまだ本気になれていないのかも……。
この映画は、見る人の本気度を試しているのかもしれないです。私は、失格です。本気さがない。こんな私でも、いつか運動に参加しなくてはいけないと思います。私は政府関係者じゃないですからね。子どもや若者のために、年取った者が頑張らねばならない時はきっと来ると思うし、その日のために力をためておかなくては!
否定はしませんが、
これが沖縄の全てではないです。
映画一本で決めつけないで。