★ 黒羽には、四月四日から十五日までおられたそうです。かなり長い滞在ですね。ここをベースキャンプにして、栃木県北部のいろんなところをめぐったようです。知り合いもいたらしい。奥羽地方を前にして、その心の準備をしていたのでしょうか。
黒羽の館代(かんだい)浄坊寺(じょうぼうじ)何がしの方に音信(おとず)る。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、その弟桃翠(とうすい)など云ふが朝夕(ちょうせき)勤めとぶらひ、自らの家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遥(しょうよう)して、犬追物(いぬおうもの)の跡を一見し、那須の篠原(しのはら)をわけて玉藻(たまも)の前の古墳をとふ。
黒羽のお代官様である浄坊寺なにがしさんのおうちを訪れることになりました。私たちの思いがけぬ訪問をしたもので、そこの主人は大喜びしてくれたんでした。
いろんな話を夜遅くまでしたものでした。弟さんは私の弟子につながる人で、桃翠といいますが、その桃翠さんも朝夕やってきてくれて、本人の家にも行き、親戚の家も訪ねて、あれこれと面倒を見てくれました。
それより八幡宮に詣(もう)づ。「与市(よいち)扇の的を射し時、別しては我が国の氏神(うじがみ)正八(しょうはち)まんと、ちかひしもこの神社にて侍る」と聞けば、感應(かんおう)殊(こと)にしきりに覚えらる。暮るれば、桃翠(とうすい)宅に帰る。
そのあと、近くにあるという八幡宮を訪れました。
桃翠さんから、「源平の戦いの折、屋島の戦いにおいて、平家の舟が扇の的を射るようにしたという話がありましたが、あの時にお祈りしたのがここの八幡様なのですよ。」というのを聞かせてもらいました。
那須与一さんの必死の祈りの先は、ここの八幡宮であったのですね。そのお社を五百年後の今、私はお訪ねしています。そういう由緒のある神様がこちらにおられたのですね。
修験光明寺(しゅげんこうみょうじ)と云ふ有り。そこにまねかれて行者堂(ぎょうじゃどう)を拝す。
夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉(かな)
修験光明寺というお寺もありました。お寺も神社も混然一体となっているところが私たちの国の文化ではありました。それも武骨な修験道のお寺であり、その中の行者堂というところを見せていただきました。
奥羽地方の夏の山が迫っています。その山の中の役行者(えんのぎょうじゃ)をまつるお堂の高足駄の下駄をつくづくと拝ませていただきました。行者様にあやからせてもらって、これからの旅をしっかりとこなせるように祈りました。そして、いよいよここから私の旅の第二のスタートが始まるのです。山の向こうは遥かみちのく地方なのです。