甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

虚構のクレーン 井上光晴 1959

2014年11月10日 20時54分02秒 | 本と文学と人と

 仲代庫男(なかしろくらお)という人が主人公で、彼は東京で焼け出され、故郷へ帰ろうと汽車に乗っていた。京都・大阪・神戸などを抜けていくとき、何度も汽車は停車し、警報が出たり、トイレに行けなかったり、それはもう大混雑の車内の中にいた。

 窓には目隠しというのか、爆弾よけというのか、すべての窓には板が打ち付けられていて、外の風景は見えない。ただ、大阪へ入るときには一度淀川を渡り、さらに西へ向かう場合は再び淀川を渡って、尼崎・西宮・芦屋・神戸と、家が面々と続く中を走っていく。神戸の町中では高架になって、繁華街をいくつか過ぎ、神戸の町が終われば、延々と田園の中を走る。それが山陽路で、どこで外を見ても、低い山々、岩がむき出しになっている乾いた丘陵地帯が続く。唯一の町の雰囲気があるのは姫路・岡山ということになる。

 けれども、もし窓がふさがれていたら、アナウンスと長いトンネルと、大きな川と、工場街のにおいとそんなことでしか場所の雰囲気を感じることはできないだろう。主人公が窓を開けようという気になったのは、どうしてなのだろう。それが運命というものか、それとも必然というのか、人でびっしり埋まった車内に1人だけ若い女性を窓からすべりこませてしまう。



 そうでもしないと物語は始まらないのだけれど、ここに井上さんのロマンチシズムがあるような気がする。あんなこわい顔をして、いつも何かにぶちあたっていく言論を振り回し、硬派の思想を駆使する作家・井上光晴は、実は娘にもやさしいし、女性との恋にあたたかなものを感じる人だったのである。

 だから、主人公は、どういう気まぐれなのか、たくさんの焼け出された人たちの中から1人の女性だけを車内に引きずり込んだ。避難民は、しばらく次の汽車を待てば、今度は乗れるかもしれないのだから、乗れなくてもともとだし、乗れたらハッピーみたいな感じで、駅に群がっていたのである。

 とにかく、車内は無理矢理若い女性1人のスペースを作らねばならず、さらに窮屈にはなったものの、なんとなく明るい雰囲気ももたらし、殺伐とした避難列車が少しだけなごんだのである。

 空腹と、疲労と、絶望と、望郷の念と、明日の希望が見いだせないことと、様々な思いを抱えて人々は車内に広がることばにならない情報に一喜一憂しながら、西をめざし、たまたま長崎市と佐世保市で方向が一緒だった2人は、一夜の車内の共同体験で連帯感をはぐくみ、それぞれが落ち着いたらまた再会しようと約束をする。



 というところで、第一章が終わります。それからはずっと仲代さんの世界で物語が進み、たまに長崎の彼女・芹沢治子(せりざわはるこ)さんから手紙が来ますが、内容は、どうしてくわしいことを教えてくれないのとか、私は薬剤師の仕事をしていたのに、結核を発症してしまい、今は療養中ですなど、待つ女としてしか描かれず、どんな顔なのかわからないけれど、第一章でさわやかでしかも凛とした強さを感じさせるヒロインに肩入れしたい自分などは、不満になったりしました。そして、どうして主人公は、気になっているのだったら、素直に彼女を見舞ったり、会いに出かけたりしないんだよと思ったりしました。

 でも、とうとう主人公は、治子さんに会うこともできず、仕事もほとんどクビ状態になった時に、長崎では大変なことが起きているという情報を知った後で、もたもたと長崎入りするのですが、時すでに遅しで、主人公はバケツを蹴っ飛ばすことしかできなくなっていた。いや、そんな気力もなくなって、ただひたすらわけのわからないことをつぶやき、ムチャクチャになってしまった長崎の町をやみくもに歩くことで彼女の供養をしたことになるのだと思われます。

 そして、その後、戦争は終わり、軍隊は解体され、権力にあったものはボロボロと崩壊し、それでも生きていかなければならない人間は、生きるためにもがき、新しい権力者の米軍を迎え、新しい時代に対応するべく変化していくというところで小説は終わってしまう。



 それで、私は、改めて「虚構のクレーン」というタイトルの意味が、少しだけ分かったような気がしたのです。私たちは、今も「虚構のクレーン」によって、何らかの方向付けをされながら生きているのだと、気づいたのです。……とてもつまらない、当たり前の気づきではありますが……。

 経済が不況だ。だから、アベノミクスで経済活性化をして、公共事業に投資するのだ。オリンピック、リニア、新幹線、原発再開、中国との対話、カジノ解禁、沖縄の基地移転など、考え得る土木産業をフル回転させ、国民全体を何らかの形で組み込んで、みんなが経済の活性化を感じさせるようにする(景気の動きに乗って自らを活性化している人たちはたくさんいるでしょう)。

 これは、本当なの? さんざん自民党の土木政治のせいで私たちは1人1人がものすごい借金をしていることになっていて、それらの返済はすべてあとまわしにして、とにかく今さえよけりゃ、それでいいというふうに踊らされているのではないでしょうか。

 もっともっと、いろんな世の中にまつわる、本当かどうか分からないのに、何となくそういう気分になって、何かとんでもない力に乗っかって、ええい、行ってしまえと、どこかへ引っ張り出されることって、あるのではないかと思うのです。私もきっと、調子に乗って、本来はあらざるべきところへ飛び降りていくことって、あるような気がします。後から、あれは失敗だったと反省するけれど、その時はそれが正しいと思ってつき進んでいるようなのです。何か、とてつもない力にそそのかされている時があると思います。



 戦争がそうでした。民主党政権を誕生させたのもそうでした。日本万博は幼かったけれど、これも幼いないなりに調子に乗っていました。もっといろいろとクレーンに運ばれることがあったような気がします。

 でも、よく考えないと、自分も、大事な恋人も失ってしまうかもしれない。私は、もうこうなりゃ、巨大なクレーンにはなるべく乗らず、家族のことを考え、クレーンの下で、こそこそと、生活のための何かを考え、生きていきたいと思います。きっとそういう生き方もありだと思うので、ぜひそういう生き方を模索していきたいです。……これが結論ですね。



 ということは、鹿島という主人公の友人の生き方みたいなものですね。探したいと思います。


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2 コメント

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う~ん!! (のりぴ)
2014-11-10 22:17:31
巨大クレーンで吊り下げられて三十年余り。もとの処へ降りたいと思いしも既に反対方向に。更なる高みへと思っていたのは遠い昔。今はクレーンの方が放したいだろうに。せめてクレーンの上で「明日なき暴走」でも唄ってやるか!
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やっとわかった!? (しらひげ)
2014-12-09 22:22:46
ブルース・スプリングスティーンですね。違うかな。とにかく、私たちはクレーンのはしごをしてるんでしょうね。今も何かにつり下げられている。どこへ下りたいんだか、下りたくないんだか……。
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