青森駅を深夜に出て、一関には早朝に着くという急行がありました。どれに乗ったんでしょう。そして、早朝の一関で何をしていたのでしょう。記憶が全くありません。メモも残念なことに見つかりません。もう少しちゃんと家の中を探しておかないと、このまま永遠にわからなくなりそうです。電車で来たのは確かなので、どれに乗ったかなのですが、そのメモがありません。どんなふうに来たんでしょうね。
とにかく一関駅に着きました。ここで待ち合わせることになっていました。数ヶ月ぶりです。彼女はふるさとでお仕事をしていました。週に1回は手紙を書いて、時々は電話をして、学生時代は毎日会っていたのに、全く会っていなくて、どんな顔をしているのかとても不安でした。2人の未来もどうなっていくのか不安な部分を抱えていたのかも知れません。
私はとんでもない顔をしていたでしょう。ずっと大阪の自宅でプータローをしていて、昼夜逆転の生活を送っていました。4月当初から始めた家庭教師の仕事は、あまりに相手の男の子ができなさすぎて、気力も失い、7月でやめていました。ストレスも重なって、胃炎になり、人生初の胃カメラも経験し、みじめな日々を送っていました。たまに名画座にでかけて映画を2本でも見ると、ものすごく社会に参加した気分になって、そのたかぶったのを彼女に書いたりして、そんなこんなのショボクレおたくのままに、東北の彼女の地元まで来てしまいました。
けれども、せっかく会いに来たのですから、会わないわけにはいきません。なにしろ大学を卒業するときには、「1年後に結婚してみせるさ」とまわりの人に豪語していたのに、ほんの2、3ヶ月でみじめなボロぞうきんのようなおたくになっていました。これでは、とても結婚どころではありませんでした。未来がまるで見えていなかったのです。
朝の駅に、とうとう彼女が現れました。電車でも来られるけれど、適当なのがなかったのかバスで来た、と言っています。久しぶりなので、あれこれ話をすればいいのだけれど、あまりあれこれと話せない感じです。なかなかうまく会話がかみあいません。おたがいにはにかみがちになります。
学生時代は、自分たちがベストカップルと密かに心に誇るものがあった(少なくとも私には自信があったと思います)2人なのに、ブランクが意外と重くて、うすいベールがかかっているような感じなのです。どうしたんでしょう。
長期休暇のときには最大2ヶ月ぶりというのがありましたが、つきあいだしてからは、なるべく実家に帰るのは少しの間で、少しでも大学のある町に一緒にいたかったので、数ヶ月ぶりというのはものすごい長いブランクでした。
特に予定はなかったけれど、ぜひ平泉に行こうと伝えていたのか、バスで平泉に向かったような気がします。いや、それとも駅前で何か食べたんでしたっけ。このあたりはいいかげんな記憶ですね。
どこかでじっとしてお互いのことを話すというよりは、とりあえず2人で歩いて、何か思いついたら少しずつ話す、というのは今でもそうで、もっと家の中であれこれと向き合って話をすればいいのに、今でも家の中では特に何も話さず、まるで赤ちゃんのように「お腹空いた」「トイレに行きたい」「眠い」「お酒飲みたい(これは赤ちゃんは言いませんけど)」を言うだけで、まともな会話というのをしていません。
どこか散歩に出かけたり、ドライブしたり、奈良のお寺に行ったり、どこかに行くと、少しだけ何かを思いついてしゃべることができます。私は自分から何か言えないし、昔から頭の回転が悪かったんですね。
そして、平泉駅に到着します。たぶんバスだったのかな……。めざすは、中尊寺で、金色堂というのは「おくのほそ道」では聞いていますが、実際に自分の目で見るのは初めてで、それなりに感動したはずなのです。
ところが、まだこのあたりでは浮き足立っていて、まともに見た記憶がありません。今ならつまらない写真を何枚も撮るはずなのに、この時はまるで撮っていません。一本道の中尊寺は、坂を上がって、お寺を見て、金色堂はそれらしくあるわけだけれど、覆い堂の新旧があるのが珍しく、そちらに気を取られて、中の立派さには心を奪われなかった。それよりも、早く彼女との距離感を昔にもどさなければならないのに、それができないのです。
能舞台やら、見晴らしのいいところに出ても、何もかも上の空でした。仕方なくふたたび坂を下りて、次なる名所をめざします。普通ならば、毛越寺なのでしょう。
けれども、そうした観光に来たわけではないので、とにかく歩けるところを探し、高舘(たかだて)という小高いお山の方に向かいました。毛越寺の反対の方角です。けれども、義経さんや弁慶さんにはゆかりの場所なので、高3の夏にずっと図書館で吉川英治の「新平家物語」を読んだ私としてはなじみのあるところだったのでした。
とにかく一関駅に着きました。ここで待ち合わせることになっていました。数ヶ月ぶりです。彼女はふるさとでお仕事をしていました。週に1回は手紙を書いて、時々は電話をして、学生時代は毎日会っていたのに、全く会っていなくて、どんな顔をしているのかとても不安でした。2人の未来もどうなっていくのか不安な部分を抱えていたのかも知れません。
私はとんでもない顔をしていたでしょう。ずっと大阪の自宅でプータローをしていて、昼夜逆転の生活を送っていました。4月当初から始めた家庭教師の仕事は、あまりに相手の男の子ができなさすぎて、気力も失い、7月でやめていました。ストレスも重なって、胃炎になり、人生初の胃カメラも経験し、みじめな日々を送っていました。たまに名画座にでかけて映画を2本でも見ると、ものすごく社会に参加した気分になって、そのたかぶったのを彼女に書いたりして、そんなこんなのショボクレおたくのままに、東北の彼女の地元まで来てしまいました。
けれども、せっかく会いに来たのですから、会わないわけにはいきません。なにしろ大学を卒業するときには、「1年後に結婚してみせるさ」とまわりの人に豪語していたのに、ほんの2、3ヶ月でみじめなボロぞうきんのようなおたくになっていました。これでは、とても結婚どころではありませんでした。未来がまるで見えていなかったのです。
朝の駅に、とうとう彼女が現れました。電車でも来られるけれど、適当なのがなかったのかバスで来た、と言っています。久しぶりなので、あれこれ話をすればいいのだけれど、あまりあれこれと話せない感じです。なかなかうまく会話がかみあいません。おたがいにはにかみがちになります。
学生時代は、自分たちがベストカップルと密かに心に誇るものがあった(少なくとも私には自信があったと思います)2人なのに、ブランクが意外と重くて、うすいベールがかかっているような感じなのです。どうしたんでしょう。
長期休暇のときには最大2ヶ月ぶりというのがありましたが、つきあいだしてからは、なるべく実家に帰るのは少しの間で、少しでも大学のある町に一緒にいたかったので、数ヶ月ぶりというのはものすごい長いブランクでした。
特に予定はなかったけれど、ぜひ平泉に行こうと伝えていたのか、バスで平泉に向かったような気がします。いや、それとも駅前で何か食べたんでしたっけ。このあたりはいいかげんな記憶ですね。
どこかでじっとしてお互いのことを話すというよりは、とりあえず2人で歩いて、何か思いついたら少しずつ話す、というのは今でもそうで、もっと家の中であれこれと向き合って話をすればいいのに、今でも家の中では特に何も話さず、まるで赤ちゃんのように「お腹空いた」「トイレに行きたい」「眠い」「お酒飲みたい(これは赤ちゃんは言いませんけど)」を言うだけで、まともな会話というのをしていません。
どこか散歩に出かけたり、ドライブしたり、奈良のお寺に行ったり、どこかに行くと、少しだけ何かを思いついてしゃべることができます。私は自分から何か言えないし、昔から頭の回転が悪かったんですね。
そして、平泉駅に到着します。たぶんバスだったのかな……。めざすは、中尊寺で、金色堂というのは「おくのほそ道」では聞いていますが、実際に自分の目で見るのは初めてで、それなりに感動したはずなのです。
ところが、まだこのあたりでは浮き足立っていて、まともに見た記憶がありません。今ならつまらない写真を何枚も撮るはずなのに、この時はまるで撮っていません。一本道の中尊寺は、坂を上がって、お寺を見て、金色堂はそれらしくあるわけだけれど、覆い堂の新旧があるのが珍しく、そちらに気を取られて、中の立派さには心を奪われなかった。それよりも、早く彼女との距離感を昔にもどさなければならないのに、それができないのです。
能舞台やら、見晴らしのいいところに出ても、何もかも上の空でした。仕方なくふたたび坂を下りて、次なる名所をめざします。普通ならば、毛越寺なのでしょう。
けれども、そうした観光に来たわけではないので、とにかく歩けるところを探し、高舘(たかだて)という小高いお山の方に向かいました。毛越寺の反対の方角です。けれども、義経さんや弁慶さんにはゆかりの場所なので、高3の夏にずっと図書館で吉川英治の「新平家物語」を読んだ私としてはなじみのあるところだったのでした。