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俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

親舅と羈旅 その1 中歴79

2020年07月20日 21時55分36秒 | 中国の歴史とことば

 紀元前307年、秦の武王さんが急逝したそうです。力持ちの男と力比べをして、失敗して腰の骨を痛めて死んでしまったんだとか……。王様なのに力自慢だったのが災いしたのか。無理しなかったらよかったのに、そんなのあとの祭りですね。

 王様はそんなことをしてはいけない。鍛えたければ、一人でやればいいのであって、みんなに自らの力を見せびらかすものではなかった。たまに一瞬だけ、その片鱗を見せればいいのです。でも、武王さんはやってしまったらしい。権力者の落とし穴にはまったらしい。

 それから、子どもさんがおられなかったので、弟さんたちで王位継承争いが起きます。秦の国の内部にいた魏冄(ぎぜん)さんは、姉の子どもである燕にいた昭襄王さん(この時はまだ王にはなっていませんけど)を推すことにして、国に返してもらって王位を継がせることを企画し、見事に成功します。

 母はそれによって宣太后(日本でも皇太后というふうに、王様・天皇様のお母様は、「皇太后」と呼ばれます)ということになって、摂政というポジションにつきます。その弟であった魏冄さんは国の実権を握るようになりますし、王の叔父である魏冄(ぎぜん)さんも権力の中心に躍り出ることになります。

 どういうシステムなのかというと、日本の戦国時代と同じように、近隣の大名の所に自分の家族兄弟姉妹を送り込み、お互いを牽制し合うシステムでした。そして、本国で跡継ぎ争いが起きたら、自分の所で保護していた方を本国に帰らせてあげて、そこで王位についてもらったら、今までの関係がありますので、その国と有利に、打ち解けて交渉できたりする、そんな感じだったのでしょう。

 日本の戦国時代は、わりとそういうのを無視して、人質の家族を見殺しにしたり、こっそりと人質だけを助けたり、日本風の努力はするけれど、中国では、後継者の教育をさせてもらっている感じではないかな。有望な人を抱え込んで次に備え、危ない時にはその有望な人が人質にもなるという仕掛けです。とはいうものの、後継者になる可能性のある人は沢山いるわけで、どれだけ後ろ盾があるかで後継者になれる可能性も変わってきたでしょう。

 昭襄王さんは、母といい、叔父といい、権力志向の人たちで、その人たちに担ぎ上げられて、年少で即位します。ですから、叔父さんの魏冄さんはサポート役にそのまま入り込み、将軍になり、首都・咸陽の守備にあたるようになります。

 ずっと下書きのままだった魏 冄(ぎぜん)さんのことにチャレンジしようとしてますけど、もう少し整理させてもらいます。

 中国戦国時代の秦に仕えた楚の公族出身の政治家です。封ぜられた土地により穣公・陶公とも呼ばれるそうです。だから、こんがらがるんですけど、とにかく、秦の恵文君(恵文王)・武王・昭襄王の三王に仕え、丞相・相国となり権勢を誇ったそうです。でも、一番権力の中枢にあったのは、 昭襄王さんの時だったでしょうか。

 宣太后(恵文君夫人)の弟で、恵文君の義弟に当たる。宣太后の一族の兄弟、甥の中でも最も賢かったため、恵文君の時から職に任ぜられ、国政に携わった。 これまた中国でよくある同族親族政治のパターンですね。

★ ここからはウィキペディアを貼り付けただけですから、スルーしてください。もう一度勉強しなおしてから書き直します。とにかく、少しずつ権力を上り、最後は転落するというパターンです。ちっとも言葉にたどり着かなくて、イヤになってきました。今から、にわか勉強してみます。

↓ スルーしてください。

 紀元前305年、先の後継者争いに敗れた公子荘は反対勢力を結集し、反乱を起こした(庶長荘の反乱、季君の乱)。この乱は魏冄らにすぐに鎮圧された。反乱を起こした者らで昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされ、武王の母である恵文后も処刑、武王后は故国の魏に追放され、この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。 

 紀元前297年、趙の楼緩が秦に来て宰相となった。趙はこれを自国の不利になると考え、仇液という者を遣わせて、楼緩を罷免して魏冄を宰相とするように請うた。秦はこれを受け入れ、 紀元前295年に魏冄は宰相となった。 

 紀元前293年、魏冄は白起を登用した。白起は昭襄王に重用されていた向寿に代わって将軍となり、韓・魏を攻めて伊闕の地で大勝した。翌紀元前292年、魏冄は病のため、請うて宰相を辞めた。しかし翌紀元前291年魏冄は再び宰相となった。この際に穣(現在の河南省南陽市鄧州市)の地に封じられ、さらにかつての春秋時代の曹の首都だった陶(現在の山東省菏沢市定陶区)も増封された。魏冄はこの封ぜられた地から穣侯・陶公と号した。 

 紀元前290年には魏を討った。魏冄は魏の河内の地を攻略し、60余りの城を陥れることに成功した。その後、紀元前283年にまた宰相を罷免されたが、紀元前281年に三度宰相となる。このように、魏冄は宰相を何度も免ぜられているがその度に返り咲いている。 

 紀元前278年魏冄は白起に命じて楚を討たせた。楚の郢の地を落として秦の版図とし、白起を封じた。白起(この人はキーパーソンなんですけど、やはり最後は悲しい最後になってしまう)は武安君と号した。 

 紀元前276年には相国となり、秦では魏冄に並ぶものがいないほどの権勢を誇るようになった。 
(いよいよ中国統一まであと少しというところまで来てたんですね。かなり始皇帝のための地ならしをしたんじゃないかな。だから、司馬遷さんの評価は高いのかも……)








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