甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

しりとりから 夢のカゴシマへ  HSD-09

2014年05月29日 21時57分58秒 | High School Days
 高1の秋、クラスの雑誌『海鳴り』で、Kは中学の初恋を詩のようなものとして描き、恥ずかしさのかけらもなく、堂々と失恋したのを表明した。それが恥ずかしいことだとも知らず、みんなが尻込みしているのにも気づかず、さも自分は詩を書いているのだと、いい気になっていた。それほどに若い時というのは、自分のまわりが見えていなくて、自分の近辺のことしか目に入らぬものらしかった。

 しかし、折角書いた詩はいまいちの評判であった。そこで第2弾は、当時得意としていた旅行記のようなもので勝負をすることになる。高校進学の直前のこと、昔は時折国鉄現在のJRが断固ストという形で、たまに鉄道が止まることがあった。たまたまストは寸前で解除されたので、寝台特急のキップを手に入れることができて、Kは弟と父母の郷里に出かけたのであった。



★ 以下は、Kの旅行記である。

   しりとりから [1975・10・27  午前0時40分 記]

 もう、みんな寝たろうか、この寝台列車の人々は……。
 みなそれぞれ、行く先がちがう。おいらは、鹿児島の田舎のおばちゃんのとこへ弟と二人で行く。その弟はさっきまで元気にはしゃいでいたのに、今はもう、列車のゆれにまかせて寝入っている。二十分くらい前まで、ヒマだったからしりとりでもしていたら、上にいた倉敷から乗ってきたオッチャンに怒られ、静まったのだが……。

 行く先はちがう。倉敷からのオッチャンも、大阪駅で少し話をした家族の行く先も。
だが、知らない同士いろいろが、夜の闇を突っ走る列車の雰囲気に酔っているのはまちがいないらしい。みなそれぞれが、とりどりに酔いしれている。倉敷のオッチャンは睡眠をむさぼり、さっきの家族のおとうさんは洗面所で揺られながら酒を飲んでいた。そして兄弟は一つの寝台に寝そべってしりとりにふけり、旅人らしき若者が雑誌を斜めにして見ている。やけに照明がまぶしく感じるのは、春だからなんだろうか。

 列車からの景色は白さが抜けて、赤みを増したなと思ったら、もう藍色に塗り替えられていた。点々と生活の明かりがついて、たそがれとなって、その車窓から歩いている人の姿が一瞬目に入る。列車に乗っているこの僕が、ただ瞬間、道行く人をサッと見ただけなのだが、とてもうれしいのだ。そんな刹那の幸せが、旅情を春にしていくような気がした。異郷の人を見たときの不思議な驚きに、おいらはしがみついていたかった。

 駅が近くなると、少しスピードをゆるめたような感じになって、スルスルと人々の生活のプラットホームをくぐって行く。どんなちっちゃな駅にも、とてつもなくでっかい駅にも、人がいて、生活を続けている。普段の通学のときは、ギュウギュウづめの、すしづめなんだけど、もうその時から「青春の旅」はその人を満たし始めていたのだ。通勤のとき、人生の旅は始まっているのに、都会の人たちは不感症になりがちだ。

 駅を抜けるのに三十秒とかからないが、おいらはこの時間がとても大切に感じられた。
 時間はもう帰ってこない。私たちのそばを通り過ぎていく無常観は、あちらこちらにたくさん落ちていて、旅をしているおいらはひとつずつ拾いあげ、それらを解きほぐしてみたかった。旅をするのは、他人の生活を訪ね、そうして自分の旅(=生活)を一層高め、愛し続けるためなのだ。
   



 Kとその弟はよく「しりとり」をした。たいていはフトンの中で眠くなるまで行う寝るための儀式であったり、休みの日の朝、フトンでもたもたする時のこども同士のひまつぶしだったりした。たいていはKの負けで、「る」攻めにあって降参したり、ある時は「す」攻めだったりした。機転の利くKの弟の集中攻撃に撃沈することが多かった。四つも年上なのに、兄としての貫禄まるでなしだ。

 いや、別に「しりとり」だけでなく、自転車だったり、お買い物だったり――何か買うにしても弟にお願いをして、K自身では買うという行為ができなかった。本当に兄らしさのない兄であった。というか、Kは甘やかされた長男だったので、自分から道を切り開くのが苦手で、だれかが何かしてくれるのを待つタイプなのであった。

 高1の春と夏の2度の鹿児島旅行は、強い印象を残してKの中にある鹿児島人としてのルーツを意識することになった。何年かにポツンと鹿児島に行くだけなのだから、それで何が鹿児島なのかというところもあるのだが、たまにしか行くことのできない土地なので、そこへのあこがれが強く、熱望するものがあった。どうして自分はここにあるのか、鹿児島の地から現在の自分へはどのようにつながるのかなどを考え、高校の時にやっと、鹿児島にルーツを持つと自覚する人間としてのアイデンティティを確立する。



 そして、確かに今は大阪に住んではいるが、心は田舎者でいこう!なるべく都会的なものは拒否して、素朴な真情で勝負しようとは思ったはずである。それがどれだけ実践で使われたかは不安が残り、時にはいじける時の材料になったこともあったと思うが、自分のスタイルを模索する中で、ルーツはしっかりと確認できた。

 1年の夏、父母のことを作文にまとめよという宿題もあった。ここで父母に取材し、父母の出会いや結婚の話を聞き、現地へも出向き、改めて自分につながる人々・土地を歩き、これを思い入れたっぷりに描いた。その結果、Kの鹿児島熱はピークに達するのだった。


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