王様を立てて国を運営することって、なかなかムズカシイと思います。日本という国は、千何百年かの歴史の中では天皇という一族を立ててやってきていますが、天皇家も最初の頃は暗殺・毒殺などいろいろな血なまぐさいことがあったようです。
私たちは、身近な世界でしかものを見ることができないので、天皇家といえばノホホーンと国民の平安を祈り、過去の戦争の歴史を反省し、人々の死や苦しみを慰めることばかりされておられる、あたたかなご家族というイメージをつくっていますが、そうでない歴史が過去にはあったようです。
中国は、トップに立つとものすごい権力を握り、絶大な王権を得られます。今の習近平さんを見たら一目瞭然です。デビュー前は、気軽なオッチャンかなと思っていたら、ずっとトップを維持している間に、ものすごくコワーイ人になってしまいました。
この王様を陰で支える人って、王としては大事にしなくてはいけませんが、しばしば王様をないがしろにする人が現れます。2500年前の斉の国だって同じです。
崔杼(さいちょ)と慶封(けいほう)の2人が政権を握ります。けれども、成り上がり者の2人は互いに権力を競い合う打ちに、2人とも歴史から消え去り、景公という王様が残ります。権力争いの中で王様の奪い合いが続くと、権力争いには興味のない晏嬰(あんえい)さんは、景公を守り通します。
やがて景公に信任された晏子さんは宰相の地位に上り、田氏一門の司馬穰苴(しばじょうしょ)を推薦します。ついでに晏子さんは、田氏一門は自分のところの領民を大事にしているので、やがては王様になるかもしれないと予言し、予言は約150年後に実現することになります。この時間を長いと見るか、短いと見るかですが、そんなものなんでしょうね。じっくり時間をかけないとトップにはなれないのです。当たり前かな。
その後も折に触れ、景公さんに対して諫言(かんげん……おこごと)を行います。
紀元前500年に晏子さんは妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去します。 晏子さんが危篤になった時、景公さんは海辺に遊びに行っていたそうです。 そこに早馬が来て晏子さんが危篤と聞き、馬車に飛び乗り、都の臨淄(りんし)に帰ります。馬車の速度が遅いと、御者から手綱を奪い取り自ら御を取ったとか……。それでも遅いので、ついには自分の足で走り、晏子さんの屋敷に着くと、家に入り、遺体にすがって泣いたといいます。
近臣の者が、「非礼でございます」と言ったそうですが、景公さんは「むかし夫子(ふうし……晏子さんのこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを責めた。いま誰が寡人(かじん……わたし)を責めようか」と言って泣き続けたそうです。それくらい信頼していたそうです。
孔子さんは「平仲(へいちゅう……晏子さんのこと)は善く人と交わる。久しくして之を敬す。」と褒めているそうです。けれども、孔子さんは晏子さんに対して否定的な評も多いようです。というのも、孔子さんが斉に仕官しようとしたら、晏子さんにストップさせられたということがあり、これが影響しているとも言われています。
それから後の孟子さんは「民を尊しと為し、社稷(しゃしょく)は之に次ぎ、君を軽しと為す。」と言っているそうです。さすが、孟子さんは国民第一の人ですね。これでは国のブレインとして採用されないですね。
ちくま文庫の「史記」から抜き出してみます。
管仲は、世にいわゆる賢臣である。しかし、孔子は彼を小人物とした。これは、周の王道が衰微して統率力がないとき、斉の桓公は賢をもって聞こえるのに、管仲は王者の道をおこなわせず、ただ覇者の名を成さしめたからであろうか。古語に「その君の長所を助長し、その短所を匡正(きょうせい)してこそ、上下相親しむ」というのは、管仲などに対して言うのであろう。
晏子が、逆臣のために弑(しい)せられた斉の荘公のむくろに哭泣(こくきゅう)し、一応の礼をすますと、そのまま立ち去って、賊を討とうとしなかった。これは、いわゆる義を見てなさざる卑怯者だったのだろうか。がら、彼は君を諌めるとき、少しも君の顔色などに容赦(ようしゃ)しなかったのは、いわゆる「進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過ちを補わんことを思う」ものと言うべきであろうか。かりに晏子が、こんにち生きているとしたら、わたしは彼のために鞭を執り、御者となって仕えようと思うほど慕わしい気がする。
《史記・列伝5 ちくま学芸文庫》
すごくほめられていますね。司馬遷さんは晏子さんが好きだったらしい。私は、少し堅物過ぎて、つきあうのが大変そうな気がしますし、いつまでも御者をやっているような気がする。御者の仕事も「おもしろくないなあ」と不平不満ばかり言っていることでしょう。それでは見所のない人物ですね。どんどんチャンスは逃げていくでしょう。
晏子さんが、部下にやさしく話しかけてくれる人だったら、イエスマンの私は「ハイ、ハイ」と返事して、それなりに出世できるかな。いや、そういう人の所で雇ってもらえるまでに至らないですね。
宮城谷昌光さんはこう書いていました。
桓公(かんこう)は管仲に国政をみさせると、自分は美しい妃妾(ひしょう)と遊びつづけた。それでも斉の国力はますばかりで、ついに桓公の威光は周王をしのぎ、諸侯は桓公に臣従した。景公は斉の栄華期をそんなふうにふりかえっていた。晏嬰に管仲ほどの能があれば、自分は桓公になれる。景公の考えかたは、それであった。……中略……
春秋時代の前期の覇者であった桓公の英邁(えいまい)さから千里ものへだたりがあるというべきこの暗昧(あんまい)な君主をいただいて、斉の国威にいささかのひびもいれさせなかったのは、晏嬰の超人的な才幹によるところが大きいことはいうまでもないであろう。晏嬰は宰相になってから引退するまで景公が放惰(ほうだ)にただよいそうになると、ときに強諌(きょうかん)し、ときに諷諌(ふうかん)して、この愛すべき凡愚の君主をいさめつづけ、教育しつづけたというのが、およそ二十年という時間の内容である。……中略……
孔子を主とする儒教集団は景公を容赦なく批判したが、孔子自身は晏嬰も批判した。
晏嬰という倹約家は先祖を祀(まつ)るにもちいる肉は豚肉で、その量たるや、豆(とう)という高坏(たかつき)をおおうほどのものではない。たとえ晏嬰が賢大夫であっても、その吝嗇(りんしょく ケチ)ぶりでは、仕える者はたまらないであろう。君子というものは、上の者を踰(こ)したり僭(ま)ねたりするものではなく、下の者を圧迫するものでもない。
孔子が晏嬰に対していだきつづけた悪感情は、ひとつに、孔子が晩年の景公に仕えようとしたとき、晏嬰にさまたげられたということに因があろう。
《宮城谷昌光『晏子 下』(新潮社 1944)》
やっと晏子さんのまとめができました。次はもう少し中国の内陸に入っていこうと思います。
私たちは、身近な世界でしかものを見ることができないので、天皇家といえばノホホーンと国民の平安を祈り、過去の戦争の歴史を反省し、人々の死や苦しみを慰めることばかりされておられる、あたたかなご家族というイメージをつくっていますが、そうでない歴史が過去にはあったようです。
中国は、トップに立つとものすごい権力を握り、絶大な王権を得られます。今の習近平さんを見たら一目瞭然です。デビュー前は、気軽なオッチャンかなと思っていたら、ずっとトップを維持している間に、ものすごくコワーイ人になってしまいました。
この王様を陰で支える人って、王としては大事にしなくてはいけませんが、しばしば王様をないがしろにする人が現れます。2500年前の斉の国だって同じです。
崔杼(さいちょ)と慶封(けいほう)の2人が政権を握ります。けれども、成り上がり者の2人は互いに権力を競い合う打ちに、2人とも歴史から消え去り、景公という王様が残ります。権力争いの中で王様の奪い合いが続くと、権力争いには興味のない晏嬰(あんえい)さんは、景公を守り通します。
やがて景公に信任された晏子さんは宰相の地位に上り、田氏一門の司馬穰苴(しばじょうしょ)を推薦します。ついでに晏子さんは、田氏一門は自分のところの領民を大事にしているので、やがては王様になるかもしれないと予言し、予言は約150年後に実現することになります。この時間を長いと見るか、短いと見るかですが、そんなものなんでしょうね。じっくり時間をかけないとトップにはなれないのです。当たり前かな。
その後も折に触れ、景公さんに対して諫言(かんげん……おこごと)を行います。
紀元前500年に晏子さんは妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去します。 晏子さんが危篤になった時、景公さんは海辺に遊びに行っていたそうです。 そこに早馬が来て晏子さんが危篤と聞き、馬車に飛び乗り、都の臨淄(りんし)に帰ります。馬車の速度が遅いと、御者から手綱を奪い取り自ら御を取ったとか……。それでも遅いので、ついには自分の足で走り、晏子さんの屋敷に着くと、家に入り、遺体にすがって泣いたといいます。
近臣の者が、「非礼でございます」と言ったそうですが、景公さんは「むかし夫子(ふうし……晏子さんのこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを責めた。いま誰が寡人(かじん……わたし)を責めようか」と言って泣き続けたそうです。それくらい信頼していたそうです。
孔子さんは「平仲(へいちゅう……晏子さんのこと)は善く人と交わる。久しくして之を敬す。」と褒めているそうです。けれども、孔子さんは晏子さんに対して否定的な評も多いようです。というのも、孔子さんが斉に仕官しようとしたら、晏子さんにストップさせられたということがあり、これが影響しているとも言われています。
それから後の孟子さんは「民を尊しと為し、社稷(しゃしょく)は之に次ぎ、君を軽しと為す。」と言っているそうです。さすが、孟子さんは国民第一の人ですね。これでは国のブレインとして採用されないですね。
ちくま文庫の「史記」から抜き出してみます。
管仲は、世にいわゆる賢臣である。しかし、孔子は彼を小人物とした。これは、周の王道が衰微して統率力がないとき、斉の桓公は賢をもって聞こえるのに、管仲は王者の道をおこなわせず、ただ覇者の名を成さしめたからであろうか。古語に「その君の長所を助長し、その短所を匡正(きょうせい)してこそ、上下相親しむ」というのは、管仲などに対して言うのであろう。
晏子が、逆臣のために弑(しい)せられた斉の荘公のむくろに哭泣(こくきゅう)し、一応の礼をすますと、そのまま立ち去って、賊を討とうとしなかった。これは、いわゆる義を見てなさざる卑怯者だったのだろうか。がら、彼は君を諌めるとき、少しも君の顔色などに容赦(ようしゃ)しなかったのは、いわゆる「進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過ちを補わんことを思う」ものと言うべきであろうか。かりに晏子が、こんにち生きているとしたら、わたしは彼のために鞭を執り、御者となって仕えようと思うほど慕わしい気がする。
《史記・列伝5 ちくま学芸文庫》
すごくほめられていますね。司馬遷さんは晏子さんが好きだったらしい。私は、少し堅物過ぎて、つきあうのが大変そうな気がしますし、いつまでも御者をやっているような気がする。御者の仕事も「おもしろくないなあ」と不平不満ばかり言っていることでしょう。それでは見所のない人物ですね。どんどんチャンスは逃げていくでしょう。
晏子さんが、部下にやさしく話しかけてくれる人だったら、イエスマンの私は「ハイ、ハイ」と返事して、それなりに出世できるかな。いや、そういう人の所で雇ってもらえるまでに至らないですね。
宮城谷昌光さんはこう書いていました。
桓公(かんこう)は管仲に国政をみさせると、自分は美しい妃妾(ひしょう)と遊びつづけた。それでも斉の国力はますばかりで、ついに桓公の威光は周王をしのぎ、諸侯は桓公に臣従した。景公は斉の栄華期をそんなふうにふりかえっていた。晏嬰に管仲ほどの能があれば、自分は桓公になれる。景公の考えかたは、それであった。……中略……
春秋時代の前期の覇者であった桓公の英邁(えいまい)さから千里ものへだたりがあるというべきこの暗昧(あんまい)な君主をいただいて、斉の国威にいささかのひびもいれさせなかったのは、晏嬰の超人的な才幹によるところが大きいことはいうまでもないであろう。晏嬰は宰相になってから引退するまで景公が放惰(ほうだ)にただよいそうになると、ときに強諌(きょうかん)し、ときに諷諌(ふうかん)して、この愛すべき凡愚の君主をいさめつづけ、教育しつづけたというのが、およそ二十年という時間の内容である。……中略……
孔子を主とする儒教集団は景公を容赦なく批判したが、孔子自身は晏嬰も批判した。
晏嬰という倹約家は先祖を祀(まつ)るにもちいる肉は豚肉で、その量たるや、豆(とう)という高坏(たかつき)をおおうほどのものではない。たとえ晏嬰が賢大夫であっても、その吝嗇(りんしょく ケチ)ぶりでは、仕える者はたまらないであろう。君子というものは、上の者を踰(こ)したり僭(ま)ねたりするものではなく、下の者を圧迫するものでもない。
孔子が晏嬰に対していだきつづけた悪感情は、ひとつに、孔子が晩年の景公に仕えようとしたとき、晏嬰にさまたげられたということに因があろう。
《宮城谷昌光『晏子 下』(新潮社 1944)》
やっと晏子さんのまとめができました。次はもう少し中国の内陸に入っていこうと思います。