甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

恩師を訪ねて メタセコイア

2019年12月16日 21時01分59秒 | High School Days

 高三の担任の先生は、今年85歳なんだそうです。担任をしていただいただけではなく、高校の先輩でもありました。うちの高校では、「……期」の卒業生というくくりで、405名がまるで一つの何かのようにまとめられることがあり、「……期」はこんなだったと語られ、くくられ、本人たちも少しは独自性を出したくて、あれこれ努力するという傾向があったのかもしれません。今はどうなっているんだろうな。

 もう1ヶ月以上前の同窓会に初めて参加してみたら、「……期」とひとくくりにしていても、確かに高校時代は、同じ行事・出来事に立ち向かっていたけれど、たくさんの生徒たちみんなが知り合いで、お互いの動向を知っているということは、本来無理なことだったのだとつくづく感じました。できれば、ほんの何人かの気の合う仲間に会えば、それでいいというものだったのかなと、今となっては思います。私の友だちって、そんなにいなかったのかもしれない。

 気の合う仲間、確かいたはずなんですけど、同窓会ではあまり思い出せませんでした。みんなと関係は切れてしまっていて、誰とも友だちづきあいをしてきませんでした。だから、いつの間にか、孤独なオッチャンになってしまっていた。

 どうして、高校の仲間から切り離されていったんだろう。たぶん、私がグータラで、人とつながろうとしなかったせいで、そのままポツンとひとりになってしまったところがあるんでしょう。すべては私のだらしなさと根気のなさが原因かな。



 私は、同窓会初参加ということでワクワクして参加してみたものの、誰とも示し合わせていないし、そもそも友だちから声もかかっていないのにノコノコ出かけてしまったのでした。だから、当日も手持ち無沙汰でボンヤリするしかありませんでした。それは当たり前の結果でした。名実ともに忘れられた存在だったのです。

 雰囲気に呑まれていて、もうその時点で半分心は閉じられていたのかもしれません。でも、そのうち何かあるだろうとずっと待っていたら、1人のクラスメートが声をかけてくれました。それはとてもありがたかったのです。でも、何を話せばいいのか、向こうも(?)こっちもわからなくて、困った時間が流れてた感じでした(たぶん)。

 でも、メールはして欲しかったし、ブログもやってるんですよとお知らせしたかった。みんなが知らない四十何年間、大したことはしてないけど、とりあえずボチボチ生きていたというのを知ってもらいたかった。とにかく、今さらながら、高校の仲間をもう一度探してみたかった。だから、勇気を振り絞って参加したのだと思う。それで、自分のアドレスやらをメモしたハガキをもらってもらいました。

 話すネタが思い浮かばないカラッポ状態なのに、何か話したかったなんて、矛盾してるけど、そんな未整理のままに参加したので、未整理のままそこにいたわけです。少しねじれてたから、行く前にタワーレコードでCD1枚買わずにいられなかった(どういう心の仕組みなのかな、オレは違うぜ、という壁を作りたかったのかな)。

 いじける私と、虚勢を張る(?)私、どっちも私なんだけど、いいオッサンのくせに、いじけてたんですね。アホみたい。どうして素直になれないかなあ。

 まるで高校の時と同じです。知り合いがいないといじけて、誰か頼りになる人がいると、それなりに自分が出せる。……何をしていたのか、たぶん、このままなのか、私って、こういう変にすねるところのある、変てこな生き物であるらしい。たぶん、このままずっと行くんでしょう。……自己弁護ばかりしてます。反省します。



 というわけで、担任の先生のところに、ご挨拶にいくこともできず、波に乗れないままずっと会場でボンヤリしてたんですね。少しだけ昔の友だちとも話ができて、今度会おうねと約束はしたんですが、いじけは治らなかった。

 担任の先生は、生物の先生でした。べらんめえ口調と、落ち着いた考えやエピソードを語ってくださる方で、学校の歴史そのものを見て来られた方でした。

 ですから、大学受験もハチャメチャに受けて、それなりの結果しか出なかった私ですけど、先生に喜んでもらえるような、びっくりするような結果が出せたらいいのになとは思ってました。それがいいことだと誤解していた。

 今思うと、先生は別に国立大学に何人合格させるとか、そういう数字を求めておられたのではなかったと思います。とにかく、生徒たちにやりたいことをさせてあげたいし、本人たちが進みたい方向に進ませてあげようとされていた。「それはやめとき。そこは無理やわ」、などとおっしゃることは絶対にありませんでした。

 そういうことができたのも、しばらくすると、国内の試験結果の数値を全て握る一部の組織・システムが完成され、その数値によって大学の合否が決まる形がなかったからでした。いざ日本を一つの数字でくくってしまうシステムができると、生徒たちの望むことなんかを進められない。やりたいことを曲げさせて、それなりの学力相応のところを受けるしかないようになっていったのでした。

 現在の大学受験は、受ける前からある程度結果は予想されている、予想通りの結果になってしまう制度に変わってしまった。生徒たちは、受かる可能性の低い大学を受けられない、とても精神的にしんどいことになり、結果に素直に従う若者たちが生まれてしまいました。何だか今まで大事にされてたものはなくなっていきました。

 今も、そこを飛び越えようとする若者たちもいるんですけど、そういうチャレンジャーは少数です、たぶん。

 大学受験から、四十何年、先生にはお目にかかることがありませんでした。そうか、それくらいにチャンスがなかったんですね。


 その担任の先生と、せっかく一緒の空間にいたというのに、バカモノの私は、ご挨拶もしないで、いじけていた。

 そういうことを教えてくれた友だちがいたものですから、私は断固として会わなくては! と勝手に決めたんでした。外国におられるのではなくて、実家の大阪に今もおられる、だったら、自分の過ちに気づいたんだから、それをちゃんと繕わねばならない。だから、敢然と私は、もう何年も乗っていない南海電車に乗り込んだのでありました!



 いつもながら、前置きは長いですね。早くスンナリ書けばいいのに!

★ 恩師の先生が、学校の中庭をメタセコイアの森にしてくれてたんです。だから、この木を見たら、私たちは、すぐあのころの中庭に戻ってしまうんです。



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