気になっていた話があったので、取り上げてみます。『列子』という本にあるそうで、うちにはその本そのものがないですね。どこかで出てると思うんですけど、文庫本で出てるかな……。出てたら買いたいなあ(岩波文庫で出てました。不勉強ですね)。
宋に狙公(そこう)なる者あり。
春秋戦国の時代、宋という国がありました。この国は、前の時代の殷王朝の生き残りの人たちが細々と生きていた国です。歴史と伝統を誇る、少しヘンクツな国です。食うか食われるかの時代にあって、周辺諸国からは何となくバカにされています。プライドだけでは生きていけないのですね。
あの国の人たちは頭でっかちで、プライドだけは大きいけれど、実は何もできないし、いつも負け犬の遠吠えみたいになっている、なんて言われています。
その国に狙公、つまり猿回しのおじさんがいました。「狙」というのは、狙撃の「狙」ですけど、けものへんで書かれた文字だから、猿の一種だそうです。まあ、中国に住んでいるおサルさんに芸をさせています。
狙を愛し、之を養ひて群れを成す。
猿をかわいがり、飼育して、その数は群れを成すぐらいに多くなっていた。
集団で芸をやらせるわけにはいかないから、何十というほどではないと思いますが、集団で飼われていたんでしょう。この群れを成す集団って、少し怖いところがあります。集団心理で動いてしまう時もありますもんね。本来は個々にそれぞれ違うのに、かたまって動いてしまう時がある。
能(よ)く狙(そ)の意を解し、狙も亦(また)公の心を得たり。
能(よ)く狙(そ)の意を解し、狙も亦(また)公の心を得たり。
この狙公さんは、猿の気持ちが理解できたし、猿もまた猿回しの心をつかんでいるようだった。
持ちつ持たれつで仲良く暮らしていたんですね。この空気感が大事なのかな。
其(そ)の家口(かこう)を損して、狙の欲を充(み)たせり。
猿回しさんは、自分の家族の食い扶持を減らすまでして、猿の食欲を満たしてやっていた。
おサルさんを飼うということは、それなりにリスクもあったんですね。それに、おサルの集団と一緒に暮らすということは、大変なことではありました。すぐにふらつくだろうし、うるさいだろうし、おサルさんたちにバンバンお金を儲けてもらわなくちゃいけないけど、そんなことはお構いなしです。
そうです。おサルさんは養い難しなのかもしれない。でも、猿回しを仕事にしてしまっていた。途中で止めるわけにはいかないのか。辞めるのは簡単だけど、おサルたちをどうするか。自分は何を元手に生きていくのか、生き方が問われてしまう。
さあ、どうなるんだろう。
俄(にわ)かにして匱(とぼ)し。将(まさ)に其(そ)の食を限らんとす。
俄(にわ)かにして匱(とぼ)し。将(まさ)に其(そ)の食を限らんとす。
おサルさんの数が多くて、エサはすぐに乏しくなりました。集団を個人で飼うなんて、根本が間違ってたのかもしれません。猿回しの人は、おサルさんたちの食料を減らそうと考えました。
集団は勝手に増えたり、どんどん減ったり、コントロールできないのです。政治が人口問題を何とかしようということは現在でも行われていますが、たいていはうまく行っていません。中国のウイグル問題のように、少しずつ人口を減らし、すべて漢民族下に吸収するという恐ろしい政策もありますけど、それもいつかは破綻するものと私は信じています。
日本のアイヌ民族のように、吸収してしまい、文化を滅ぼしてから、再生させるということはあるかもしれません。
衆狙(しゅうそ)の己(おのれ)に馴(な)れざるを恐るるや、 先(ま)づ之(これ)を誑(あざむ)きて曰(い)はく、
おサルさんたちが自分の言うことを聞かなくなるのを心配して、まずおサルさんたちをだまして言ってみました。
「若(なんじ)に芧(とち)を与(あた)ふるに、朝(あした)に三にして暮(くれ)に四にせん。足るか」と。
「お前たちにドングリをやる時に、朝三個、夕方には四個にしよう。それで足りるかな? どうだい?」と。
「お前たちにドングリをやる時に、朝三個、夕方には四個にしよう。それで足りるかな? どうだい?」と。
おサルさんたちは、ドングリ七つで一日を過ごしていたようです。それだけで足りるわけがないと思うけれど、どんなところで暮らしていたんだろう。餌付けしていただけなんだろうか。
朝夕にエサをあげ、一部の賢いおサルさんに芸をさせてたのかどうか。おサルさんの芸って、この時代にどんなことをさせたんでしょう。綱渡りとか、エサをキャッチするとか、単純な芸だったのか、内容が気になりますね。
衆狙(しゅうそ)、皆(み)な起(た)ちて怒(いか)る。俄(にわ)かにして曰はく、
さあ、おサルさんたちは、エサを減らされることが不満で、立ち上がって怒った。猿回しはその様子を見て、すぐに言いました。
おサルさんたちはどうして怒ったんでしょう。これは、朝の場面なんでしょうね。「なあ、お前たち、いつも朝は四個だったけど、これからは朝は三個にしよう。夕方に四つだから、食べてる量は同じだよ。」と、話す内容を変えても、おサルさんたちは怒ったはずです。
おサルさんたちは、今、四個食べないと気が済まないのです。トータルで一緒だなんて、そんなとこまで考えられないのです。目先の事実が大事なのです。
「若(なんじ)に芧(とち)を与(あた)ふるに、朝(あした)に四(し)にして暮(くれ)に三にせん、足るか」と。
「お前たちにドングリをやる時に、朝四個、夕方には三個にしよう。それで足りるかな? どうだい?」と。
中国語って、数字が耳に残るはずだから、おサルさんたちもしっかり聞いたんでしょうね。朝にちゃんと今まで通りドングリ四個食べられるよ、という風に聞こえました。この事実が大事でした。
今、自分たちが食べられるものを変えられてはたまらない。おサルさんたちは個数を確保したつもりでした。
猿回しさんは、戦略があったんでしょうね。小さいドングリとか、腐ったドングリとか、他の木の実、とにかく七つ分を確保すれば、おサルさんたちは文句を言わないだろうと確認できたのです。
衆狙(しゅうそ)皆な伏(ふ)して喜ぶ。
おサルさんたちは、現状維持を確保できたと大喜びで、みんなひれ伏して喜んだそうです。
こんな風にして、群衆を管理する者は、怒らせた後に喜ばせたり、あれこれご機嫌を取りつつ、コントロールしていく。現状維持は、目標に上げられることではありますけど、世の中が激変しているのに、今まで通りに与えられた分を「お上」の言うとおりにやってるんだぞ、他のことで文句は言うな。お前たちをちゃんと管理してあげてるんだ、感謝しろ。私を信じてついて来い。
おサルさんたちは、それを受け入れました。
さて、私たちは、おサルさんでしたっけ? 少しその気がありますね。すぐに騙されてしまうし、言うことを聞いていようとずっと我慢するでしょう。
そして、与えてくれるものを有り難がって食べていくんでしょう。
それは、誰が与えてくれたもの? 世の中はどうなっているの? そういうことは考えないようにしています。
そして、この国の壊滅的な借金はどんどん膨らんでいきます。私が返すお金ではありません。私がこの世からいなくなったら、もっと膨れているんでしょう。もう考えないことにして、目先のドングリのことを考えます。
私は、この借金問題を解決しないことには、日本の浮上はあり得ないと思っています。まあ、思っているだけです。みんな、そんなことはどうでもいいことだと思っているんですから、私もそれに従います。