甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ああ、ゴキブリ人生

2018年11月14日 22時05分48秒 | ザンネン日記・身辺雑記


 志賀直哉さんが「城の崎にて」という小説を書いたのは、30代前半みたいで、そのきっかけになった山手線での事故は30歳の8月だったそうです。重症を負ったということですが、どれくらいのケガだったんだろう。とにかく命を見直す大きな契機にはなったことでしょう。

 事故の2か月後、直哉さんは城崎温泉にやってきました。養生するためでした。そこの旅館で次のような場面が描かれます。

 ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。

 ほかの蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回るが全く拘泥(こうでい)する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂はいかにも生きている物という感じを与えた。

 そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つの所に全く動かずにうつむきに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。

 それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。

 淋しかった。ほかの蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つの残った死骸を見ることは淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。


 淋しいけれども、何だか静かで、私たちが生きている世界のすぐ隣に広がる深い死の淵に落ちてしまうこと、つまり死ぬことは、とても静かですから、生きることに疲れたらそれもあり? という雰囲気の書きぶりです。

 三十を過ぎたくらいで、直哉さん、少し作りすぎていますよね。すべてが見えたわけではないですよね。そういうポーズをとってみて、でも、やっぱり死ぬのはイヤだ、と言ってもらわなくては困ります!



 私が、突然の「城の崎にて」を取り上げたのは、私なりの理由があります。

 さっきお風呂に入っていて、ふとお風呂の扉のレールの上に、中くらいのゴキブリの死骸を見つけました。一瞬驚いて、でも、たぶん死んでいるんだろうと安心したものの、見れば見るほど気持ち悪いし、イヤな気持ちになっていました。

 ずっと見続けていてもゴキブリは動きません。死んでいます。もう何も考えてないし、お腹もすかないし、子孫を残せたのかどうか。どうしてこんなところで死んでいるのか。それはわからないけれど、とにかく静かで、ジタバタしていないんだなと思ったら、志賀直哉さんの「城の崎にて」を思い出しました。あれと同じように死んでるゴキブリに不気味さだけじゃなくて、静寂をふと感じたんです。

 死は、静かなものなんでしょうか? 志賀直哉さんはそう思ってたんでしょうか?

 もちろん、違います。確かに静かなものではあるけれど、もう何も苦労はなく、ただ干からびたり、腐ってしまったり、とにかく今までの形が崩壊していきます。苦痛はないけれど、生きている実感はありません。動けないから自然の成り行きで静かなだけで、本人としてはただの無なんでしょう。静かにしたいわけじゃないし、見る人に静かな気分を味わわせたいのでもない。ただの無です。

 「城の崎にて」でも、いろんな生き物たちの生と死が描かれて行きます。針が刺さっているネズミが川の中で生きようとして川の堤防を上がろうとする、けれどもノドに刺さっている針が邪魔をして上がれない。そうしたジタバタの中で、いつか溺れて死ぬかもしれないけど、そこまでは書かなくて、とにかく自分が生きるためにジタバタすることが生であり、死は誰もがやがては経験するものだけれど、それはただの結果であって、自ら望むものではない。生きるうちはジタバタしなくてはならない。というような感じで生と死を見つめていきます。

 小説の最後の方で、風がないのにずっと揺れ続ける木の葉を見つめる場面が描かれます。象徴的な場面だと思われますが、それが結局、人間たちの生なのだという意味合いなのかなと私などは思ったりします。

 たぶん、直哉さんにも答えはなかった。死は分かっています。静かであり、何もない、淋しいことであった。



 それなら生は? それはジダバタすることなのか? という感じ。

 生きているということは、ワチャワチャしていて、落ち着かないし、イヤなことばかりだし、家に帰ったらお酒飲んでガーガーみんなに迷惑をかけながら寝るようなものです。とても騒がしい。

 人に迷惑をかけることが生きることであり、その分時々は誰かを助けたり、誰かをサポートしたり、寄り添ったり、あまり役に立っていないように見えることをすることが生なのだ。それでこそ生きているというものだ。

 ゴキブリだって、人間に嫌がられてナンボです。それでこそゴキブリ人生を全うすることができる。たぶん、私たちも同じです。誰かの迷惑となり、誰かの世話役にならなくては!

 ゴキブリさんはお風呂から出た後、下水に流しました。供養したことにはならないけど、とりあえず、私はあれこれ考えさせてもらった。それで、何とかしてあげたかった。

 そうだ。せいぜい私も、世の中のゴキブリとして、みんなに嫌がられ、嫌われ、時々は誰かの役に立てるよう、生きていきます。明日もフツーに暮らしていこう!



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