「ローマの休日」(1953)、「スパルタカス」(1960)「パピヨン」(1972)、これらの映画作品に関連性があるとは知りませんでした。映画というのは総合芸術だから、一人の力で出来上がるものではないけど、脚本家のドルトン・トランボさんという人が、大きく関わり、その実績によって今も私たちはこれらの作品を楽しめてたなんて、うっかりしていました。
でも、どうしてドルトン・トランボさんなんだろう。何かの記念日? という訳ではないですね、何となく、突然なのかな……。
何の脈絡もなく、突然に「ジョニーは戦場へ行った」のワンシーンを思い出しました。一番最後の場面だったと思います。字幕版は見てないかもしれないから、吹き替え版で見たのだと思われます。まわりは騒がしいけれど、その喧騒に向かってメッセージを伝えたいのに、言葉も目も手も使えなかった主人公でしたね。
主人公のジョニーは、包帯でぐるぐる巻きにされていて、話せない。手足が動かせない。目もおおわれているという状態でした。戦争で負傷し、そういう状態になったということでした。70年代当時に読んだカフカの「変身」にもつながる、一人で悶々としている主人公です。話したいのに、みんなに何かを伝えたいし、もっといろんなことがしたいのに、全てできなくなっていたのです。
ジョニーが、病床の中で、自分の頭を使ってモールス信号を発信している場面でした。誰がそのメッセージを受け止めたのか、たぶん、誰も受け止める人はいなくて、無言の負傷兵がモタモタ動いていて、生きてるのは確かなんだけど、誰もその生きているというのをわかってあげない、そんな息苦しい映画ではありました。
2時間足らずの中で、他の場面は、おそらく、ジョニーをめぐる人々のおしゃべりだったと思われますが、あまりみんなからよく思われていないというのか、どうしてこれで生きているの、という感じの人々だったような気がします。もうすごく古い記憶だから、怪しいけれど、みんな事務的なことは話すけれど、愛情をもってジョニーには接しないのです。
それで、ジョニーは頭を使ってモールス信号を打った。でも、その信号を誰も受け取らなかった。今もそんな風にかき消されるメッセージってあるような気がします。
ウィキペディアから引用したのを省略して載せてみます。
ダルトン・トランボ(Dalton Trumbo)という映画監督・脚本家がいました。1976年9月10日(70歳没)に亡くなっています。アメリカで1940年代に起こった赤狩りに反対したいわゆるハリウッド・テンの一人で、迫害期にはベン・L・ペリー、ロバート・リッチ、イアン・マクレラン・ハンターなどのペンネームで活動したこともあったそうです。
1976年には亡くなっていた。唯一の監督作品である「ジョニーは戦場へ行った」は、どうしても作りたかった作品だし、30年以上の熟成期間を経ていたわけですね。
知人の紹介でワーナー・ブラザースの脚本部に採用された後は、脚本家としていくつもの会社を渡り歩き、多数の脚本を手がける一方で小説の執筆も続け、1939年には小説『ジョニーは戦場へ行った』を出版する。
この本は第二次世界大戦中には戦争支持派から度重なる脅迫を受ける一方で、反ユダヤ主義者やファシストのグループからは早期講和を目指すプロパガンダに利用され、そのような読者からは何通もの手紙が送られてきた。トランボは連邦捜査局(FBI)に通報するが、FBIは右翼グループからの手紙ではなく、トランボの思想や活動について取り調べを行った。
小説として書いた「ジョニーは戦場へ行った」は、書きたかったテーマだったんですね。それくらいに戦争というのは人間をムチャクチャにしてしまうものではありました。今も世界のあちらこちらで戦争は続いているけれど、何のために、誰のために行われていることなのか……。
そして、防衛費はGDPの2%程度って、欧米がそうだから、うちもと、都合のいい時だけ「欧米」を使い、そうじゃないところは知らんぷりだなんて、ご都合主義もいいところだけど、まあ政治って、そんなものではありますね。
欧米並みの豊かさとゆとりが欲しいけれど、人々がそんなの望んでないんですから、アジア的にいくしかないんです。
1943年にアメリカ共産党に入党。戦時下の共産党はアメリカと戦争を強く支持する姿勢で、約8万人の最高党員数を記録していた時期だった。第二次世界大戦終結後の東西対立の激化の中、後に「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれる指導弾圧運動が起こり、1947年10月20日、ハリウッド映画界の著名人19人が反共キャンペーン下院非米活動委員会による第1回聴聞会に召還され、その中にはトランボも含まれていた。
赤狩りで映画界から追放された人たちは割とたくさんいます。チャップリンだってそういう扱いを受けました。アメリカが共産主義にピリピリしていた時代がかつてありました。
当時の人たちに、1989年の世界が見えていたら、「共産主義なんて、独裁と衰退を生むだけだし、自由がないじゃないの!」と言えただろうけど、人には先のことなんて見えなくて、目先のことで判断するわけでした。
実名でハリウッドに復帰した後、『脱獄』『パピヨン』などの脚本に関わった。また、長年映画化を希望していた自作の小説『ジョニーは戦場へ行った』を、自らの監督作品として原作・脚本を兼ね、自ら資金も調達して製作した。1971年に公開され、アメリカでは興行的に失敗したが、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞した。
そして、トランボさんは映画界に復帰し、自作の小説を映画化し、その他の作品でも才能を発揮する。「パピヨン」の自由を求める主人公も、「ローマの休日」で王女様から切り離されたグレゴリー・ペックさんも、みんな自由と心つながる人を求めているこころが描かれていましたっけ。
現在の私は、何かに囚われているんだろうか。それはいつもそうですね。自由というのは難しいです。自由だとだらしなくなるし、生産的ではないし、お金にならない。
自由を食い物にして、ふくれあがる権力はあるけど、私はそんなの持ってないし、寝っ転がっているだけです。せいぜい誰かに声かけなきゃ! 家族にも声をかけなきゃねえ!