甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

いまにつづく平安期の感覚

2024年04月15日 09時32分28秒 | 本読んであれこれ

 1980年の秋、司馬遼太郎さんたちは越前の旅をされたそうです。その旅が「街道をゆく」シリーズの18巻「越前の諸道」にまとめられ、1982年に単行本化され、文庫は1987年に出ています。

 そして、私は、今さらながら2024年に読んでいます。もうすぐ読み切りそうです。40年以上前の司馬さんたちの旅をたどりながら、私は2023年の1月に行ったっきりですから、その時の感じと重ね合わせて、越前とはどんなところだったのか、知ろうとしています。

 昨日も見た「光る君へ」のドラマの主人公の紫式部さんも、この越前の武生というところに滞在したそうですから、その足跡もたどりたいけど、全く彼女たちが生きていた痕跡なんて全くないでしょうね。千年というのは、あまりに遠すぎます。山や川があるだけだろうな。

 さて、本の最後の方に、平安期の人々が持つことになった感性というものを司馬さんが書いておられます。それは、越前の焼き物を語るところから始まり、どうして常滑焼の性質・手法を踏まえた古越前なるものができたか、というところに話は行っています。

 奈良三彩も平安時代の緑釉も、貴族や社寺が用いたもので、庶民には関係がなかった。
 といって、平安期に出現する常滑のような土器同然の焼きしめ・自然釉といった武骨な系統を庶民が需要したのかといえば、そうではなかった。この泥っぽい焼きものでさえ庶民の手はとどきにくく、さきにふれたように、古常滑は、社寺・貴族のためのものであった。大胆にいえば、支配階級は華麗な彩陶の生命が尽きたあと、常滑をえらんだのである。

 奈良時代には、ちゃんと中国をまねしたものが作られていたそうです。それが菅原道真さんが提案した検討し廃止あたりから、つまり894年あたりから、自分たちオリジナルの好みというのを作っていったらしいのです。

 確かに、もう大混乱している中国なんて置いておいて、自分たちは自分たちの道を築こうというのは、独立した歩みと言えますね。



 平安期の大勢力であった叡山などは常滑を常用し、またくだって鎌倉幕府を擁した新興の武家も鎌倉において常滑をつかったことは、破片の出土状況でよくわかる。もっとも一方で、平安期の公家も、鎌倉期の武家も、輸入物の宋の磁器などを用いてはいたが、そういうものを国内生産させようというまでには、いたらなかった。奈良朝貴族のちがいであるといっていい。

 このことは、寺や役所の建物を中国風に丹(あか)や青で塗りたくる奈良朝人とのちがいであろう。

 平安の人々にとって、世界とは、この小さな列島だけになってしまっていた。そして、まだまだこの列島内でも、東北地方や南の島あたりには、知らないものがたくさんあるし、未知の世界を少しでもなくしていきたい。少しでも自分たちの世界を知りたいと、少しずつ歩んでいく時間だったようです。

 唐から宋、宋から元という王朝の変化は聞こえてきたでしょうけど、わざわざ攻め込んでくることは元寇までなかったのですから。



 奈良朝において、まことに「青丹よし」であった塔や伽藍が、その後古さびて塗料が剥落し、木の黒っぽい地が露れてきても、平安期のひとびとはむしろそれをよしとし、塗りかえたりすることがあまりなかったのではないか。

 さらには、平安期の御所や公家の住居では、もはや青丹をつかわなくなった。木材の地と塗り壁だけの配色を好むようになる。支配階級の色彩感覚が、牢固として独自なものになったのである。

 今に残る平安的なものというと、京都の東寺とか、弘法大師信仰とか、王朝的な好みとか、これだというと取り出せないけど、わりと小細工しないことを正当とする、こざったぱりしたものを好む趣味みたいなのが、ずっと醸成されて千年経過した、ということなのかなと、大河ドラマで一喜一憂している私なんかは思ってしまいました。

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