萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

楽市楽座を考えることにした② 織田信長のマネー革命

2014-01-19 06:02:59 | 日々の疑問
以前、楽市楽座が信長に富を集中させる理屈になっていないと書いて、一旦閉じた楽市楽座を考えることにしたであったが、それらしいものをタイトルだけ見つけて書店に行き、購入を考えたのだが、置いてなかった。

しばらくして、amazonのお気に入りに入れておいたそれらの本をいくつか見ると、最寄りの図書館にそれあります。という告知が出ていた。
もしかしたら紹介していないかも知れないけど、chromeではamazonで検索すると「図書館でも借りられる」という表示をする機能があります。
※参考記事はこちら


根っからの貧乏性なので、じゃあ予約!と思ったらすぐに借りれる。1番だった。
年末の話ですけどね。


まず読んでいるのは「織田信長のマネー革命」

いきなりビンゴ。「楽市楽座には信長にはどんなメリットがあったのか?」という項が数ページ後に出現した。

この本自体が、信長を経済史上のれっきとしたイノベーターとして取り扱っており、経済史感的にもかなりの画期的な発案をしているという理由が書かれている。

全てを書くと面白くないと思いつつもどうやってお知らせしようか?と今頭を巡らせています。


「寺」「城」「港」の3つが大きな旋回させた軸として書かれている。
「戦(いくさ)」そのものも大きな収入源として書かれているし、それを成立させるために軍律がとても厳しいものということも書いている。信長軍団では、お札を売っていて、それを貼ってある家屋敷地での戦闘はしないというもの。軍律を厳しくしたのは、複数人から買わせる行為ともちろん狼藉の類。他の大名でもこの御札は売っていたようだが、この正当性と理屈を分かり易くした。
「寺社」については、その当時の暴虐ぶり、荒稼ぎぶり、というのが想像も出来ないのだが、この本でも座を巡る利権を奪うことについては楽市楽座で成功させている。
座への加盟料は取っていないが、冥加金という売上税(消費税は消費者が負担するものだけど、売上税は売価に乗じて商人から取る仕組み)だけは全て領主の「信長」に納められていたというようである。
であれば、この「市」が大々的に他の市よりも物流のいい・産業地に近い場所で開催されれば、という発想であるので、
大きく市を広げることのできる場所を近江の安土に見定めたのだろう。他の場所でもやったり、中にはやらなかったりしたそうだが。

で、速やかな徴税を行うため、強い領主の出現を分からせるための「城」「城下町」の建築。

物流の中で貿易という部分に関しての「関税」を陸送では「関所」を取り払うが、「港」ではしっかりと取っていたらしい。
これが父の代の信秀から津島という港からの税収と常滑焼、瀬戸焼などの商工業産地からの税収で潤っている基盤があり、
そこに税≠米=土地<港・産業という「土地(農地)に縛られない感覚」が芽生えていた。
抹香を位牌にぶん投げたという信長の奇行が余りにも有名で、父信秀の遺訓など微塵もないように感じ、
「宗教嫌い」「蛮行・横暴・粗野」のイメージが先行するが、代替わりを見せつける必要があったから?と考えれば少しは納得できる。
城の建設が領民に対するもので、抹香をぶん投げてでも自分の蛮行を見せつけれるのは下臣に対するデモンストレーションだとすれば得心しないわけでもない。
下地というか経済・商業・物流に着目をさせたのは確実に父信秀であることは間違いないのだから。

ただこう考えてくると、やはり軍事政治の極みでもある武家領主権の主張は、どうもヤクザなイメージが払拭できない。

冥加金が、そのままみかじめ料に通じ、縄張りそのものが領地拡大に繋がっている。と普通に思うでしょうね。

四民平等があったり、基本的に出生による差別がないとされる現代に比べれば、道徳などというもので覆われている訳ではない世の中では致し方ない部分もあろうかと思う。

そこで、「信長の夢」として標榜された「よりましな」世の中について考える必要があろうかと思うが、それは全て想像でしかない。

天下を治める途中の手段までしか披露していないからだ。

標榜したものの欠片を集めれば、おおよそのサイズは分かろうとも思うが、武力で世界に出ていくことまでを考えていたとは思いにくい。

チンギス・ハンが興した元の再来を行おうと思っていたのか?という部分にはいささか眉唾な部分がある。まだ世が乱れたままの時代なのである。


私も以前までは知らなかった内容の中に、宗教論争の審判をして、信長がある宗派を懲らしめたという逸話があることが、井沢元彦の著作にある。

この記事の上で書いた「寺」に対するものとして、信長が宗教弾圧を行っていたと思しき歴史とともに理解されがちであることを諭した文章であった。

信長はキリスト教を認める一方で、比叡山延暦寺、石山本願寺、伊勢一向宗徒を弾圧していると思われる一連の流れに対して、背景がおおよそ違う現代との部分はそちらを参照してもらいたいが、安土宗論においては論戦を確実に学術の域で執り行われたと思わされた。

宗教とは、、、、その答えは自分自身の中にはないが、全ての事象と現象を「意味あるもの」に言い果せる技なのではないか?と思わされる。
でもそんなに辻褄よく全ては出来ていやしないよとも思えるその論理を収めている経典。その領域での論戦とはまさに。「如何に深い理解と解釈をどちらがより励んでいるか」を賭けた、自派の沽券に関わる闘い。

よく、理系の人が宗教に嵌まりやすいと聞く。

辻褄が合いにくい全ての事象を「何か」を足掛かりに「信」足るものに繋げてしまうものではあるのであろう。

「禁忌」のようなものが存在するように、「何か」と対峙するものに繋がりそうなものはその途中を覚えていなくとも確実に「意識下」に「忌まわしい」ものとの感覚を植え付けている。それも宗教の一端ではある。

ハタと気付く自分の中にもある惧れを意識させることとその成り立ちは古来の習慣に単に根ざしたものであるため、その無意識下で行われるようになった習慣の根源の出自などの理屈には屈服しやすいのかも知れない。知っていれば対処のしようもありそうだけど。

ただ、その道を一つの正しさとともに現したものの体系を信長はそれなりに認めていなければ、審判を請け負うことはしなかったはずである。

もし、信長が「自分以外の崇めるもの」につながるもの全てを棄却したいと思っていたのであれば、それらも自分に繋がるように作り上げたはずである。ならば、どれもこれも同じでしかない。片方に勝ちをつけ、もう一方に負けを裁定する領域ではない。審判を請け負うことはそれの域をある部分では認めているはずだと思える。

そこまでがあったのか?とは思いにくいのが、前にも書いたキリシタンを認めていた部分だ。異国の宗教に新しさが加わっていたとしても、同じような理屈で出来上がっている宗教に優劣をつけていたわけではないであろう。棄却したかった部分は自分への恭順を示さない態度、生を賭して抗ってくるというスタイル、政治への介入、それを成立させる中間的な搾取であろう。


なんだか道を逸れたような気になってきたが、、、大丈夫だろうか?

話を楽市楽座に戻そう。

冥加金を取る「信長」は、”軍事”と”軍律”の制定と履行、”公平な税”とその周辺の”搾取のとっ払い””城下町の建設”を担当している。

「商人」は、物を選別することと運んで市場に届けることを担当している。

一次産業は人間の生きる根源、それを担う「農民」には枡を統一させた上で、領官の不正を防いで税金の公平性を齎している。

茶や絵師、踊り手についてもその美を探求する部分を認めている。


なので、信長が懸命にやろうとしたことは、「秩序の復活」とともに「不労の排除」だと思えてくる。

戦乱の世は何をしても構わないという秩序の乱れが激しい。そこでは中間搾取が激しい。それはこの世界を成立させていることの中で一番役に立っていない。

施政者にはその対価の責任として、領民を守ることと秩序を求める部分にまでは、軍事をチラつかせない訳にはいかない。時代からの要求だから。

最終的に信長ほどの前例を物ともしない柔軟な態度の果てには、確実に世界からの植民地活動の兆しも掴んでいたに違いない。

元寇で確実に海の向こうからの驚異と最終的には、それによって瓦解した武士政権の歴史が既にあった時代である。

キリシタンからはそうした情報と備えを得ていたとしても不思議ではないが、信じるものという行動が極端になっていた乱世ではそれへの歯止も頭に去来した難しさであったこととは思う。

理想国家とは、時代と環境において違ってくるが、目指したものが単純に「我が世の春」ではなく、「自分なりの整然とした生産性の高いものへのシフト」「秩序の復活」だったのではないだろうか?とすればなんとなしに理解が出来てくるような気にもなった。

天下を統一し、戦(いくさ)を真ん中から脇に置いた時に初めてそのバランスが復活する。詰め将棋的に見た局面で何手かけたら詰むのか分からなければ、戦は容易には始まらない。軍事国家は人類が経てこなければならなかった国家形成上の試金石だったと思いたい。鎖国はそれから目を背けるという、何とも歪で事なかれな雰囲気が国家を最終的には衰退の域に至らしめたと思っているけど。。。

楽市楽座を考えるところからすると随分と話が膨らんでしまったようにも思えるが、楽市楽座こそがその体現したかった国家構想の一端ではなかったかと改めて思う。

道路の整備や街の整備、戦時中ではそれも限界があろう。平定した暁には、成し得たであろう織田政権の国家は江戸幕府とはどう違ったのか、、、歴史のifは禁じ手だが、つい想像してしまうもの。

それでもあれだけ起こった謀反の数々には何か策がなかったものか?と思う次第。
理想が共感で集まった軍団ではなかったとも思うし、強烈な仕打ち(軍律・処置)のようなものが人々に畏怖の念を抱かせたことも事実としてはあるような気がする今日この頃です…。

また何か気になることが出来たら記事にしてみます。
コメント