梅さんのかわら版.umelog

甲州市~甘草屋敷

花子とアン~再び

2021-01-30 11:36:16 | 花子とアン

2014年に放送されたNHK朝ドラ「花子とアン」の再放送が1月25日(月)から始まった。
これは「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の明治・大正・昭和にわたる、
波乱万丈の半生記を描いたもの。
花子は、山梨の貧しい家に生まれ、東京の女学校で英語を学び、
故郷での教師生活をへて翻訳家の道へ進んだ。
震災や戦争を乗りこえ、子どもたちに夢と希望を送り届けたというお話し…

ということで、このブログのコンテンツを見ると分かるが、
umeさんはこのドラマについてなんと、2014年4月1日から9月のドラマ終了時まで、
感想を書いている。
赤毛のアンは、女性にとって永遠のバイブルのような本で、ファンも多い。
その出版までの道のりは、決して平たんではなかった。

このドラマは、仲間由紀恵が演じた柳原燁子(柳原白蓮)の人生と、
ダブル主役のような内容になっていて、
それが又、波乱万丈な生き方で迫力があった。
愛人との命がけの逃避行など、その生き方は非常にセンセーショナルである。
柳原白蓮については、林真理子が「白蓮れんれん 」という本を出している。

ロケ地は、とある山梨の山間地。
とても貧しいという設定なので、茅葺の質素な家だ。

ドラマは第42回まで山梨当時の様子や女学校時代が描かれている。

山梨にゆかりの俳優さんも多く出演していて、マキタスポーツさんは、
小学校の校長先生だ。
umeさんのブログと比べながら見ると又面白いかもしれない。

【放送予定】
2021年1月25日(月)より 全156回 一日に二日分の放送。

"もう一人の腹心の友~片山廣子”

2014-09-28 21:46:24 | 花子とアン

9_28_hiro_3 ドラマには出て来ませんでしたが、花子の生涯に大きくかかわった人がもう一人います。
花子を語るにはなくてはならない人ですが、ドラマには片山さんらしき人は出て来ませんでした。腹心の友の蓮子さんより強い影響力の有った人です。(写真:片山廣子さん)
・・・・・・・

 “片山廣子”
白蓮(柳原燁子)の紹介で入門した佐佐木信綱の竹伯会で、花子は15歳年上の片山廣子と出会います。廣子は信綱門下を代表する歌人であり、アイルランド文学の翻訳者としても知られています。
 
花子は大森の片山邸をたびたび訪れ、ショー、ワイルド、メーテルリンク、イプセンなどの作品を借り、新たな文学的な刺激を受けます。片山廣子によって近代文学の世界へと導かれました。
結婚後花子は東京大森に住んでいましたが、これは片山廣子の近くに住みたいという希望からだったのです。関東大震災後、花子が夫と共に自宅で出版兼印刷会社を起ち上げる際にも、廣子は金銭的支援を申し出ています。A01thumb200x294459826thumb200x294_2  

 最愛の息子、道雄を失った時、花子が立ち直るきっかけとなったのは、廣子から贈られたマーク・トウェインの“The Prince and the Pauper”でした。昭和2年「王子と乞食」として翻訳出版されたこの本は、花子の人生の記念碑的な作品となりました。

「もしも片山さんの近くに住んでいなかったら私の上に強く吹き荒れた生活の転変は、私をして、ただ生活の現実のために心を砕くことのみに忙しく、かって持っていた文学への夢も、失われてしまったかもしれないと思っている」と語っているように、廣子は花子にとって人生の曲がり角で、常に歩むべき道を示してくれた友でした。 

・・・・・・・・

非常に大きな存在だったのですが、なぜ描かれなかったのかは謎です。
因みに、修和女学校時代からずっと花子の友人として蔭になり日向になり寄り添ってくれていた醍醐亜矢子さんは架空の人物です。醍醐さんが片山廣子さんだったのかな…。


”世界ってとても面白い~花子終了”

2014-09-27 16:07:06 | 花子とアン

B02thumb220x323446836thumb220x323_3  「・・・・・・ねえ、どうして道が赤くなるの?」
「そうさな、どうしてかなぁ」

 マシュウは答えた。

 「いいわ。それもいつか、しらべだすことの一つだわ。これから発見することがたくさんあるって、すてきだと思わない?あたししみじみ生きているのがうれしいわーーーー
世界ってとてもおもしろいところですもの。

 もし何もかも知っていることばかりだったら半分もおもしろくないわ。
そうでしょう?・・・・・・」

 

9_27_1_21893年(明治26年)山梨県甲府市で生まれた村岡花子は、翻訳者として遂に世紀の大ベストセラー「赤毛のアン」出版にこぎつけました。それは、決して花子一人の功績ではありませんでしたね。

最終回、この本を出版するのにどれだけの人々がかかわり、そしてどれだけの時間を有したか…人々の頭には白いものが増え、その年月の長さと苦労を思い知らされます。

山梨を舞台に繰り広げられた「花子とアン」物語。図書館で、文学館で、NHK甲府放送局で、関連の講演会やトークショーが開かれ、このドラマのお蔭でいろいろ勉強させてもらったじゃん。半年間、ふんとうに楽しかったさ。

途中、あまりにこぴっと!が飛び交うから、今年の流行語大賞になると思ったけんど、終盤は東京が舞台だったから、めっきりこぴっと!が減っちゃったじゃんね。ちょっと残念だけんど、このこぴっと!はいい言葉だよ。残していきたいじゃんね。

9_27_3てっ!お父うやんの葬儀に顔を見せなかったから、心配してたけんど徳丸甚之助さん、元気だっただね。

ふんとうに柔和ないい顔をして…得を積むとこんないい顔になるだね。安東家はこの徳丸さんにどれだけ助けられたことか。

てっ!ぶどう酒を飲んでるじゃんけ。
日向ぼっこしながら、武に本を読んでもらって…そのうちうつらうつらしだすだよ。徳丸さんにはきっと「赤毛のアン」は退屈だからね。穏やかないい晩年だね。

 

 

 


”遂に出版~孤児の少女アンの愛と感動の物語”

2014-09-26 12:16:54 | 花子とアン

9_26_3  9_26_4
一気に加速した"Anne of Green Gables” の出版。
ただ問題なのが、本の題名です。ここで手腕を発揮するのが小鳩書房の小泉さん。ひらめいたんですねいい名前が…
長年温めて来た本ですから花子の意固地になる気持ちも分かりますが、
「窓辺に寄る少女」は、そこに何も想像の翼が広がりませんね。少女像が浮んで来ません。「赤毛のアン」を譲らなかった美里の気持ちも分かります。

9_26_21952年(昭和27年)5月10日、こうして遂に "Anne of Green Gables”は「赤毛のアン」として出版されます。

”新刊 カナダの美しい島で暮らす赤毛のアンの成長物語”

”お母さんと一緒に見て頂きたい おすすめの名作!”

”孤児の少女アンの愛と感動の物語赤毛のアン” 小鳩書房  こんなキャッチコピーが店頭に並びます。

スコット先生に託されてから13年経っていました。
曲がり角を幾度まがったことでしょう。奇跡的に戦火を逃れ、きっと原書はボロボロだったでしょうね。
”願えば叶う”
この本には花子の日本中の子供にいい本を届けたいという強い思いがいっぱい詰まっているのです。ふんとうに長かったなぁ…


”いよいよ出版へ秒読み”

2014-09-25 21:04:22 | 花子とアン

9_25_2てっ!小鳩書房の社長さんって、茂木健一郎さんでしたか?(分かっていたけどちょっと驚いてみました。)

茂木さんと言ったら、5月6日にこのブログでも取り上げていますが、赤毛のアン大好き人間です。どれだけ大好きか講演会で90分間しゃべっていますのでこちらを見て下さい。

その時から、何かしら関わってくるとは思っていましたが、なんとこのドラマに止めを刺す重要な役。ふんとうにビックリしたずら…
正直言って、誰もがえぇぇと驚くような演技で、おもわずぶっかりそうに9_25_3 なったじゃん。ふんだけんど、茂木さんは山梨に二度も来てくれたじゃんね。山梨を盛り上げてくれた功労者さぁ。ほう思うことにしてくりょう。


美里に怒られていたけんど、どれだけ
"Anne of Green Gables” が魅力ある本か身振り手振りで力説する姿は、演技じゃなくて、心からほう思っていることが伝わってきたじゃんね。
この勢いで行くと、直に出版されるよ。
よかったじゃんねぇ!


”白蓮(宮本燁子)の晩年”

2014-09-24 15:17:19 | 花子とアン

9_24_1花子のすすめで蓮子は一歩前に進みだしました。
実際に蓮子(宮本燁子)は、1946
(昭和21)年5月、NHKラジオで、戦争で子供を亡くした母親にむけ て、世界平和に立ち上がることを呼びかけます。そしてそれがきっかけで「悲母の会」が結成されます。 のち にこの会は「国際悲母の会」となり、世界連邦運動に発展しました。

そして、白蓮は婦人部の中心となり湯川秀樹夫人スミらとともに全国を行脚します。純平を失った当初はこのような歌を詠んでいたのですが…

    海見れば海の悲しさ山見れば山の寂しさ身のおきどころなく

    夜をこめて板戸たゝくは風ばかりおどろかしてよ吾子のかへると
9_24_2  

悲母の会の結成後、70を過ぎてからも体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡りますが、この時の歌は、自然と我とが一体になった至高の歌になっています。

 

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも    わがゆくものか

  遠つ祖の なみだに見たる秋の空佐渡はけぶりて小雨となりぬ  

・・・・・・・

過酷とも見える無理の多い講演旅行を続けた結果、やがて白蓮は目を苛み緑内障に侵される結果となりました。そして、1961年、76歳で両眼を失明してしまいます。しかし作歌は永眠の前年まで続けられました。

    眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

     そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ

最後の歌は神々しいほどに心に響きます。そして1967年(昭和42年)81歳で生涯を閉じます。晩年は家族と共に穏やかに過ごしたそうです。



”お父やんの死”

2014-09-23 15:56:09 | 花子とアン

9_22_1花子とアンも後4日となりました。
花子の原点である山梨、お父うが亡くなり、葬儀に再びこの甲府に家族が集合です。

花子は、山梨に暮した日は短いですが、お父うとの絆は強かったですね。花子の才能を見抜いて修和女学校に入れたのもお父うやんの裁量です。他の兄弟に比べ花子だけが特別扱いされました。それだけお父うには感謝しなければなりません。
放浪癖もあり、家族には迷惑をかけたお父うですが、「終わりよければすべてよし」という諺があるように、最後には吉太郎とも和解し、良い一生ではなかったでしょうか。願わくばこの葬儀には徳丸甚之助さんにも来て欲しかったですね。ふじちゃんとの絡みが見たかったです。


”それぞれの生き方”

2014-09-21 00:14:18 | 花子とアン

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終戦後、いろいろなものを失いながらも人々はそれぞれ動き出しました。
かよは、カフェタイムを失った喪失感から立ち直り、一からの出発です。生きようという生命力はかよが一番あるかもしれませんね。あの過酷な製紙工場を必死で逃げだしたのですから。根性がそんじょそこらの人とは違います。それに、郁哉もついていますからね。あのプロポーズはかよの一生分の生きる支えとなっているようです。

てっ!宇田川先生は随分と荒んでみえますね。あんなに戦争を賛美していたのですから、この敗戦はこたえるでしょう。生きる道筋を失ったかのように見えます。宇田川先生と言ったら派手な衣装に、毒舌、早くあのころを取り戻して欲しいものです。

醍醐さんは、大事な青春を戦争に翻弄されてしまいましたが、ここにきてようやく幸せを手に入れたようです。吉太郎とぶどう酒を作りたいということですから、チーム山梨としては大歓迎です。隣のリンさんがしゃらうるせいと思うけんど、がんばってくれちゃ。

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ここにも一人戦争に翻弄された人がいますね。蓮子さんは、かっては”何も恐れるものはない ”と言って、恋の逃避行を決行した人。随分芯の強い人かと思っていたのですが、子供のこととなるとこんなにも打ちのめされてしまうのでしょうか。
時代の最先端を行っていた人物だけに、信じがたい気がします。
ラヂオのおばさん復活で、人々はそれぞれ動き出しそうです。


”おまんは俺の誇りじゃん~和解”

2014-09-19 16:33:35 | 花子とアン

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山紫水明の地~山梨。
ドラマも佳境に入り、安東家の兄弟がこの故郷に集合です。
もうこの素晴らしい富士山や美しい滴のような葡萄が見られないと思うと淋しいですね。
安東家は米造りからブドウ栽培へと変わりましたが、相変わらず質素な暮らしのようです。唯一のごちそうが「おほうとう」。でもみんなで囲炉裏を囲めばこんなに美味しいもはありません。
終戦がもたらした家族団らんです。

9_19_2 まだ、あの翻訳本は海のものとも山のものとも分かりませんが、この甲府には平安が訪れました。
子供の頃からのお父うと吉太郎の確執…。お互い酸いも甘いも味わい、苦労の末の和解です。
 「俺は、おまんにうちの仕事をさして、上の学校にも、行かしてやれなんだこん、ず~っと悔やんできた。」
この言葉を吉太郎はどれだけ待っていたかわかりません。きっと、長い間のわだかまりが解けてなくなった瞬間でしょう。そして、生きる気力を失ってしまった吉太郎には、お父やんのこの言葉は心に沁みたでしょうね。

 「必死で生きてさえいりゃあ、人生に無駄なこんなんて、これっぽっちもねえだ。おまんの選んだ道は、間違ごうちゃいん。世間が何と言おうと、おまんは俺の誇りじゃん。これまでも、これっからも。」

甲府に戻り、葡萄酒造りをする覚悟を決める吉太郎ですが、この頃はまだ葡萄酒は日本人にはなじみがありませんでした。昭和39年の東京オリンピックや大阪万博等の国際交流を通じてようやくその認知度が高まったようです。吉太郎の葡萄酒つくりも軌道に乗るにはまだまだ時間がかかるでしょう。
この頃、こぴっとがあまりでてきませんが、みんな年を取り、こぴっとすることがなくなってしまったのでしょうか…。吉太郎には敢えて言います。こぴっと葡萄酒を作ってくりょう!


”ルーシー・モード・モンゴメリ”

2014-09-18 17:07:48 | 花子とアン

9_18_2 花子とアンで忘れてはならいのが"Anne of Green Gables”の産みの親、ルーシー・モード・モンゴメリです。
この人がいなければ村岡花子はただの平凡なラヂオのおばさんで終わったでしょう。今日、満を持してこの名前が出てきましたね。

・・・・・・
ルーシー・モード・モンゴメリは、カナダのプリンスエドワード島のクリフトンで誕生しました。

母親はモンゴメリが生まれて、わずか2才で亡くなってしまい、母親の両親の手で育てられます。
大学を卒業し、教員をしながら作家を目指します。

新聞社等で働きながら雑誌に短編小説を投稿していましたが、徐々に長編を書きたいという気持ちが高まり、そして出版されたのが『赤毛のアン』です。

 しかし、花子とモンゴメリはよく似ているのですが、すぐにこの本が出版出来たわけではありません。

いくつか出版社に送った原稿は、採用されず戻ってきてしまいます。
それで諦めるモンゴメリではありません。最後に送ったボストンのL・C・ページ社で出版が決まったのです。「捨てる神あれば拾う神ありです。」
 

花子も小鳩書房に持ち込まれた原稿は、"Anne of Green Gables”だけ戻ってきてしまいますよね。その理由がルーシー・モード・モンゴメリの知名度がなかったから…。売れるかどうか賭けだったんですね。


モンゴメリのこの著書は世界的に大ヒットしました。このページ社では 「アンの青春」「アンの友だち」、「アンの愛情」までを出版しています。

 

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英治も言っていますよね、「あれだけの空襲をくぐり抜けてきたんだ。花子さんの思いを乗せて、このアンの物語が必ず、日本中の少女たちの手に届く日が来るさ。」そうです、曲がり角をまがった先には、きっといちばんよいものが待ってるに違いないのです。
もうすぐそこですね!!