梅さんのかわら版.umelog

我が家の琉球朝顔~オーシャンブルー

”誰が反対しようとも~プロポーズ”

2014-09-30 18:03:11 | マッサン

 9_30_2_3 グラスゴーの少し北にあるローモンド湖畔の明るくて美しいほとりで、政春はエリーにプロポーズします。
                    

・・・・・・☆・・・・・・

 「エリー… わしと…結婚してくれ。エリーと結婚できるなら、日本に帰らんでもええ。このままずっと死ぬまでスコットランドに住む。ずっとエリーと一緒に、生きていきたいんじゃ。」
「日本に行く。政春と一緒に、私が、日本に行く。」
「エリー…。」
 「政春の夢は、日本で、初めてのウイスキーを造る事でしょ?  だから、私が、日本に、ついていく!」
                      ・・・・・・・☆・・・・・・・

9_30_3_2こうして、19201月、グレート・ハミルトン街カールトンにある地区登記所の記帳台におかれた帳面に結婚の署名をします。

 この時、妹のルーシー以外立ち会いの家族はいませんでした。エリーの両親もまたこの結婚には反対だったのです。政春26歳、エリー24歳の春でした。

 この時政春は誓います。
「前進あるのみ、この人と終生一緒に夢の実現のために歩むのだ」と。
そしてエリーは、政春の渡したペンを微笑みをもって受取ると、ためらいもなく一気に署名します。その瞳はきらきらと輝き、決意の色に染まっていました。
・・・・・・
しばらく、スコットランドの雄大な景色とロマンチックな二人の余韻に浸って下さい。この後、日本のごたごたが始まるのかと思うと、ここは異次元の世界です。

 

 


”マッサンとエリーの物語”

2014-09-29 20:53:43 | マッサン

Photo今日から始まったNHKの朝ドラ「マッサン」は、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝氏がモデルです。

これから半年間その半生が描かれるわけですが、その前にちょっと予備知識を…。

 竹鶴政孝氏

 “より多くの日本人に本物のウイスキーを飲んでほしい。”という情熱を胸に、大正7年(1918年)、24歳の時に単身渡英します。
門外不出のウイスキー製造法を学び、1920年11月帰国後、日本に初めてモルト蒸溜所を完成させます。本物のウイスキーづくりに人生を賭け、日本で本格ウイスキーをつくり続けた人物で、1940年、ニッカウヰスキーを創業します。

竹鶴リタ さん

 スコットランドに滞在中にグラスゴー大学で医学部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)と知り合います。そしてその姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、192018日結婚します。

 プロポーズの時「スコットランドに残っても構わない」と言う竹鶴に、「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と答えたリタは、その年の11月竹鶴と一緒に日本にやってきます。日本の生活に溶け込もうと努力を重ね、漬け物や塩辛まで手作りした彼女を、人々は「日本人以上に日本人らしい」と評しました。日本語の勉強にも励み、流暢な関西弁を操るまでになったが「マサタカサン」という発音が難しかったためか、竹鶴のことを「マッサン」と呼びました。
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9_29_2ドラマでは、この竹鶴政孝氏は亀山政春という名前で玉山鉄二さんが演じ、リタさんは亀山エリー でシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じます。朝ドラ初の外国人ヒロインです。

今日は、1920年、スコットランドの留学を終えて帰ってくるシーンから始まりました。実家にはいきなり泉ピン子さん演ずる政春の母、亀山早苗が現れます。存在感凄い!思わずおしんを思い出しました。
それにしても、写真のリタさん絶世の美女ですね。これで日本人以上に日本人らしいと評されたそうですから、どのようにして日本人になっていくのか興味が湧きます。

 


"もう一人の腹心の友~片山廣子”

2014-09-28 21:46:24 | 花子とアン

9_28_hiro_3 ドラマには出て来ませんでしたが、花子の生涯に大きくかかわった人がもう一人います。
花子を語るにはなくてはならない人ですが、ドラマには片山さんらしき人は出て来ませんでした。腹心の友の蓮子さんより強い影響力の有った人です。(写真:片山廣子さん)
・・・・・・・

 “片山廣子”
白蓮(柳原燁子)の紹介で入門した佐佐木信綱の竹伯会で、花子は15歳年上の片山廣子と出会います。廣子は信綱門下を代表する歌人であり、アイルランド文学の翻訳者としても知られています。
 
花子は大森の片山邸をたびたび訪れ、ショー、ワイルド、メーテルリンク、イプセンなどの作品を借り、新たな文学的な刺激を受けます。片山廣子によって近代文学の世界へと導かれました。
結婚後花子は東京大森に住んでいましたが、これは片山廣子の近くに住みたいという希望からだったのです。関東大震災後、花子が夫と共に自宅で出版兼印刷会社を起ち上げる際にも、廣子は金銭的支援を申し出ています。A01thumb200x294459826thumb200x294_2  

 最愛の息子、道雄を失った時、花子が立ち直るきっかけとなったのは、廣子から贈られたマーク・トウェインの“The Prince and the Pauper”でした。昭和2年「王子と乞食」として翻訳出版されたこの本は、花子の人生の記念碑的な作品となりました。

「もしも片山さんの近くに住んでいなかったら私の上に強く吹き荒れた生活の転変は、私をして、ただ生活の現実のために心を砕くことのみに忙しく、かって持っていた文学への夢も、失われてしまったかもしれないと思っている」と語っているように、廣子は花子にとって人生の曲がり角で、常に歩むべき道を示してくれた友でした。 

・・・・・・・・

非常に大きな存在だったのですが、なぜ描かれなかったのかは謎です。
因みに、修和女学校時代からずっと花子の友人として蔭になり日向になり寄り添ってくれていた醍醐亜矢子さんは架空の人物です。醍醐さんが片山廣子さんだったのかな…。


”世界ってとても面白い~花子終了”

2014-09-27 16:07:06 | 花子とアン

B02thumb220x323446836thumb220x323_3  「・・・・・・ねえ、どうして道が赤くなるの?」
「そうさな、どうしてかなぁ」

 マシュウは答えた。

 「いいわ。それもいつか、しらべだすことの一つだわ。これから発見することがたくさんあるって、すてきだと思わない?あたししみじみ生きているのがうれしいわーーーー
世界ってとてもおもしろいところですもの。

 もし何もかも知っていることばかりだったら半分もおもしろくないわ。
そうでしょう?・・・・・・」

 

9_27_1_21893年(明治26年)山梨県甲府市で生まれた村岡花子は、翻訳者として遂に世紀の大ベストセラー「赤毛のアン」出版にこぎつけました。それは、決して花子一人の功績ではありませんでしたね。

最終回、この本を出版するのにどれだけの人々がかかわり、そしてどれだけの時間を有したか…人々の頭には白いものが増え、その年月の長さと苦労を思い知らされます。

山梨を舞台に繰り広げられた「花子とアン」物語。図書館で、文学館で、NHK甲府放送局で、関連の講演会やトークショーが開かれ、このドラマのお蔭でいろいろ勉強させてもらったじゃん。半年間、ふんとうに楽しかったさ。

途中、あまりにこぴっと!が飛び交うから、今年の流行語大賞になると思ったけんど、終盤は東京が舞台だったから、めっきりこぴっと!が減っちゃったじゃんね。ちょっと残念だけんど、このこぴっと!はいい言葉だよ。残していきたいじゃんね。

9_27_3てっ!お父うやんの葬儀に顔を見せなかったから、心配してたけんど徳丸甚之助さん、元気だっただね。

ふんとうに柔和ないい顔をして…得を積むとこんないい顔になるだね。安東家はこの徳丸さんにどれだけ助けられたことか。

てっ!ぶどう酒を飲んでるじゃんけ。
日向ぼっこしながら、武に本を読んでもらって…そのうちうつらうつらしだすだよ。徳丸さんにはきっと「赤毛のアン」は退屈だからね。穏やかないい晩年だね。

 

 

 


”遂に出版~孤児の少女アンの愛と感動の物語”

2014-09-26 12:16:54 | 花子とアン

9_26_3  9_26_4
一気に加速した"Anne of Green Gables” の出版。
ただ問題なのが、本の題名です。ここで手腕を発揮するのが小鳩書房の小泉さん。ひらめいたんですねいい名前が…
長年温めて来た本ですから花子の意固地になる気持ちも分かりますが、
「窓辺に寄る少女」は、そこに何も想像の翼が広がりませんね。少女像が浮んで来ません。「赤毛のアン」を譲らなかった美里の気持ちも分かります。

9_26_21952年(昭和27年)5月10日、こうして遂に "Anne of Green Gables”は「赤毛のアン」として出版されます。

”新刊 カナダの美しい島で暮らす赤毛のアンの成長物語”

”お母さんと一緒に見て頂きたい おすすめの名作!”

”孤児の少女アンの愛と感動の物語赤毛のアン” 小鳩書房  こんなキャッチコピーが店頭に並びます。

スコット先生に託されてから13年経っていました。
曲がり角を幾度まがったことでしょう。奇跡的に戦火を逃れ、きっと原書はボロボロだったでしょうね。
”願えば叶う”
この本には花子の日本中の子供にいい本を届けたいという強い思いがいっぱい詰まっているのです。ふんとうに長かったなぁ…


”いよいよ出版へ秒読み”

2014-09-25 21:04:22 | 花子とアン

9_25_2てっ!小鳩書房の社長さんって、茂木健一郎さんでしたか?(分かっていたけどちょっと驚いてみました。)

茂木さんと言ったら、5月6日にこのブログでも取り上げていますが、赤毛のアン大好き人間です。どれだけ大好きか講演会で90分間しゃべっていますのでこちらを見て下さい。

その時から、何かしら関わってくるとは思っていましたが、なんとこのドラマに止めを刺す重要な役。ふんとうにビックリしたずら…
正直言って、誰もがえぇぇと驚くような演技で、おもわずぶっかりそうに9_25_3 なったじゃん。ふんだけんど、茂木さんは山梨に二度も来てくれたじゃんね。山梨を盛り上げてくれた功労者さぁ。ほう思うことにしてくりょう。


美里に怒られていたけんど、どれだけ
"Anne of Green Gables” が魅力ある本か身振り手振りで力説する姿は、演技じゃなくて、心からほう思っていることが伝わってきたじゃんね。
この勢いで行くと、直に出版されるよ。
よかったじゃんねぇ!


”白蓮(宮本燁子)の晩年”

2014-09-24 15:17:19 | 花子とアン

9_24_1花子のすすめで蓮子は一歩前に進みだしました。
実際に蓮子(宮本燁子)は、1946
(昭和21)年5月、NHKラジオで、戦争で子供を亡くした母親にむけ て、世界平和に立ち上がることを呼びかけます。そしてそれがきっかけで「悲母の会」が結成されます。 のち にこの会は「国際悲母の会」となり、世界連邦運動に発展しました。

そして、白蓮は婦人部の中心となり湯川秀樹夫人スミらとともに全国を行脚します。純平を失った当初はこのような歌を詠んでいたのですが…

    海見れば海の悲しさ山見れば山の寂しさ身のおきどころなく

    夜をこめて板戸たゝくは風ばかりおどろかしてよ吾子のかへると
9_24_2  

悲母の会の結成後、70を過ぎてからも体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡りますが、この時の歌は、自然と我とが一体になった至高の歌になっています。

 

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも    わがゆくものか

  遠つ祖の なみだに見たる秋の空佐渡はけぶりて小雨となりぬ  

・・・・・・・

過酷とも見える無理の多い講演旅行を続けた結果、やがて白蓮は目を苛み緑内障に侵される結果となりました。そして、1961年、76歳で両眼を失明してしまいます。しかし作歌は永眠の前年まで続けられました。

    眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

     そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ

最後の歌は神々しいほどに心に響きます。そして1967年(昭和42年)81歳で生涯を閉じます。晩年は家族と共に穏やかに過ごしたそうです。



”お父やんの死”

2014-09-23 15:56:09 | 花子とアン

9_22_1花子とアンも後4日となりました。
花子の原点である山梨、お父うが亡くなり、葬儀に再びこの甲府に家族が集合です。

花子は、山梨に暮した日は短いですが、お父うとの絆は強かったですね。花子の才能を見抜いて修和女学校に入れたのもお父うやんの裁量です。他の兄弟に比べ花子だけが特別扱いされました。それだけお父うには感謝しなければなりません。
放浪癖もあり、家族には迷惑をかけたお父うですが、「終わりよければすべてよし」という諺があるように、最後には吉太郎とも和解し、良い一生ではなかったでしょうか。願わくばこの葬儀には徳丸甚之助さんにも来て欲しかったですね。ふじちゃんとの絡みが見たかったです。


”俳句の査定~稲穂”

2014-09-21 17:23:15 | プレバト俳句

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病みつきになって又この番組を見てしまいました。
今回のお題は、稲刈りですね。それを稲架に掛けて乾(ほ)している風景を見て一句です。
今回は、俳句といえば5・7・5と口を酸っぱく言われ来たのですが、なんと7・7・4が出てきました。

ようやくここは / 秋の穂のなる / 東北

この句の評価は”才能有りで70点”でした。ということはこれも有りということですね。作者は渡辺えりさんです。
画像からも分かるように、渡辺えりさんは東北出身で、東日本大震災に被害にあわれた人達をずっと応援してきました。津波にあったあの荒涼たる大地に3年たってようやく稲穂が実ったということを詠んだんですね。だから、破調となっても、東北を最後にでんと据えたかったということです。
「ようやく」「秋の穂」「東北」というこのフレーズから、その思いは素人にも伝わってきます。そして、「ようやく」という言葉に東北の人の我慢強さが感じられ、よくやったというエールも送りたくなるような、東北の現状をよく表して入る句だと思います。なんだか、涙が零れてきそうです。
因みに、このお題は東北の風景なんてどこにも出て来ません。
えりさんがそう想像したのです。

前回umeさんは、句会で5・8・5の句を出したところ、没になりました。これは推敲が足りなくて自分でも分からずに出してしまったものですが、この7音は絶対に崩してはいけないと言われています。umeさんの先生は絶対にこのことは譲りません。
えりさんの句も中は7音で収まっていますね。
今回はとても勉強になりました。


”それぞれの生き方”

2014-09-21 00:14:18 | 花子とアン

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終戦後、いろいろなものを失いながらも人々はそれぞれ動き出しました。
かよは、カフェタイムを失った喪失感から立ち直り、一からの出発です。生きようという生命力はかよが一番あるかもしれませんね。あの過酷な製紙工場を必死で逃げだしたのですから。根性がそんじょそこらの人とは違います。それに、郁哉もついていますからね。あのプロポーズはかよの一生分の生きる支えとなっているようです。

てっ!宇田川先生は随分と荒んでみえますね。あんなに戦争を賛美していたのですから、この敗戦はこたえるでしょう。生きる道筋を失ったかのように見えます。宇田川先生と言ったら派手な衣装に、毒舌、早くあのころを取り戻して欲しいものです。

醍醐さんは、大事な青春を戦争に翻弄されてしまいましたが、ここにきてようやく幸せを手に入れたようです。吉太郎とぶどう酒を作りたいということですから、チーム山梨としては大歓迎です。隣のリンさんがしゃらうるせいと思うけんど、がんばってくれちゃ。

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ここにも一人戦争に翻弄された人がいますね。蓮子さんは、かっては”何も恐れるものはない ”と言って、恋の逃避行を決行した人。随分芯の強い人かと思っていたのですが、子供のこととなるとこんなにも打ちのめされてしまうのでしょうか。
時代の最先端を行っていた人物だけに、信じがたい気がします。
ラヂオのおばさん復活で、人々はそれぞれ動き出しそうです。