MAMMA ちょっと 元気になれる かもしれない処

箱根西麓の山の上で 自然な生き方を模索する日々

武蔵の最期

2018-08-24 07:18:04 | komako

先週、東京都三鷹市のホームページに「みたかデジタル平和資料館」というのがあり、

その中に「沈没した戦艦武蔵の最後を明かす元乗組員」という新聞記事を見つけました。

ばあちゃんの長兄は武蔵に乗って戦死したので、その方の話は聞いたことがありますが、

今まで戦争の残酷な事実からは、あえて目をそらしてきました。

新聞記事を見て、同じ武蔵の乗組員の話を聞いてみようと思っていたのですが、

昨日はちょうど雨だったので、動画を拝見しました。

全編後編で80分くらいですが、話を聞き取るのが結構大変でした。

塚田義明さんという方は、中2で特別年少兵というのに志願し、

昭和16年7月、全国で3万人の志願者の中から3200名に選ばれました。

横須賀海兵団の一期生になれたことは、軍人のほこりだったそうです。

私の伯父は徴兵されて横須賀に行き、機械や電気に詳しかったようで、

戦闘員としてではなく武蔵を操縦する方の役割だったそうです。

昭和19年10月24日のシブヤン海での戦闘までの経緯、

進むしかない、力はないことは分かっていた、武蔵は囮役だったという話、

実際にその場所にいた人の言葉には重みがあります。

米軍の5回の攻撃で武蔵は次第に傾き、ついに艦長から撤退命令が出て、

傾いた武蔵から多くの兵士が海へ飛び込んだそうです。

生きて日本へ帰るまでの話も壮絶で、生き残れた人はごくわずかだったようです。

伯父は機械室にいたのでしょう。

浸水してきて電気系統が壊され、そこから出ることが出来なかったのか、

既に覚悟を決めていたのでしょうから、逃げるという選択は無かったのかもしれません。

米兵は勇気が無くて弱いという教育を受けていたのに、飛行機を急降下して攻撃してくる米兵に、

「相手もすごい、大変なんだなと思った。」と塚田さんが言っています。

お互いの間には何の恨みもない人間同士が、殺し合わなければならない戦争、

なぜ無くすことができないのか、動物の性なのかと思ってしまいます。

塚田さんは海に飛び込んだ時、体中を包帯で巻かれていたため自由が利かず、

もう駄目かと思った瞬間、母親の顔と子供時代に遊んだ風景が目に浮かんだそうです。

そしてたまたま流れてきた木材につかまって、必死に生き延びた・・・。

伯父は閉じ込められた武蔵の中で、仲間たちとどんな思いで沈んでいったのか・・・。

夏休みの終わりに子供たちの自殺が急増するというニュースを聞きながら、

複雑な気持ちで過ごした雨の一日でした。

コメント (2)
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