今日は10月28日。日曜日。 年間第三十主日。
今日の主日の『テーマ』は『祈りに応える神』です。
旧訳では・・・60年間のバビロンの捕虜となっているユダヤ人たちの必死な祈りを聞きとげられる神が語られます。
新約では・・・進み行かれるイエスに必死に追いすがる一人の盲人へのイエスのいやしが語られます。
『祈り』は、『心のほとばしり』、『心の願い』です。
”主よあわれみたまえ!”と叫び続ける、『天に向ける素朴なまなざし』です。
『今日の集会祈願』
『いつくしみふかい神よ、
苦しみや悲しみの中から救いを求める声に耳を傾けてください。
あなたにより頼むわたしたちが、この集いをとおして、主の導きを確かに受け止めることができますように。』
私たちは、日々いやされながら、イエスに付き従う『信仰の道の最終地点』を見る恵みも願いましょう。
『毎日のミサ』より。
まずは。
旧約聖書。 バビロン捕囚の民の『祈り』です。
『今日の第一朗読 エレミヤの預言』
『主はこう言われる。
「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いください イスラエルの残りの者を。」
『ユダヤ人のリーダーたちに、エルサレム帰還と再建を許すキュロス2世』 ジャン・フーケ作品
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。』
エレミヤ書 31章7-9節
『バビロン捕囚』とは、
ユダ王国のユダヤ人たちが、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、
バビロンを初めとしたバビロニア地方へ、捕虜として連行され、移住させられた事件です。
ネブカドネザルは、ユダ王国の首都エルサレムを攻略し、ユダの他の都市も征服ました。
更に。
ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに、強制移住させ捕囚としました。
捕囚は、1回目は西暦前598年。2回目は西暦前587年。 598年~538年の帰還までの60年間に及びました。
民は、主の勧める通りに、『主よ、あなたの民をお救いください、イスラエルの残りの者を。』と祈りました。
神は、『民の祈り・叫び』を聞きいれ・・・
キュロス2世の心に働きかけ、ユダヤ人の『エルサレム帰還』を実現されました。
ユダヤ人は、流刑の後に、解放され、故国に戻って、エルサレムで神殿を建て直す、ことを許されたのです。
祖国帰還の人数は、目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も、約20万人に達したとか!
神は、『民の祈り』を聞き、偉大な業で、助ける方です。
『今日の答唱詩編』
『神が捕われびとをシオンにもどされたとき、わたしたちは夢を見ている思いがした。
わたしたちの顔がほほえみ、口には喜びの歌が浮かれた。
国々の民も叫んでいった、「神は彼らに偉大なわざを行われた」と。
神はわたしたちに偉大なわざを行われ、わたしたちは喜びにあふれた。」』
詩編 126章1ー3節
『祈りの基本』は、祈りのたまものを神から無償で頂くために必要な心構えである、『謙虚さ』です。
祈る者は高められるのです。人間は神の物乞いなのです。
『カトリック教会カテキズム』より。
次に。
新約聖書。 一人の盲人の必死な『祈り』です。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、
ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
『盲人とイエス』
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、
彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。
人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、
イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。』
マルコ1福音書 10章46-52節
盲人は・・・
最初は、道端に座って、物乞いをしていました。
イエスが通りかかるのを見て、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫びました。
周りの人が押さえつけても、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』 と、
イエスを見つめながら、叫び続けました。
次に、イエスに呼ばれると、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、イエスのもとに走り寄ります。
イエスの質問に答えて、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言います。
イエスは盲人の答を聞き、『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』と言います。
信仰は、大事な上着を脱ぎ捨てるように、大事な自我を捨てて、『イエスの御言葉』に従うことで始まるのです。
人は、物事がはっきり見えないときは、暗やみの中を歩くがごとく、心までやみくもに動くことになります。
『盲目』とは、自分の行くべき道がはっきり見えていない、『無明』の状態なのです。
”あれも欲しい!” ”私の気持ちはこう!”と・・・『執着の世界』に閉じこもっている状態なのです。
『盲人』は、イエスに呼ばれると、”見えるようにして下さい!” ”信仰ができるようにして下さい!”と・・・
心が無執着となり、執着心の証しである上着を捨てて、『光・イエス』の元に走り寄りました。
盲人の信仰を見抜いたイエスは、『あなたの信仰があなたを救った。』と、盲人をいやします。
その後・・・盲人は、上着 自分を捨てて、イエスに従ったのです。
人は皆、盲人のような者ですが、
イエスに目を向けながら、『祈りの日々』で・・・見えるようにしていただけるのです。
人は信じて、祈る。 神は、祈りに応えられるのです。
日々・・・祈りましょう!
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日の主日・日曜日はいかがでしたか?我が家は、夫はゴルフ妻は教会、充実の一日でした。 お元気で!
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