日本語の授業は、ひとり増えて6人になった。今回は小さな積み重ねが大きな力となることを、逆の立場で体験できた。今日で4回目の授業。素人の講師に力もスキルもない。でも、確信できた。みんな日本語を身に着けてくれていると。今日から入ってくれた人、その前の回から入ってくれた人、最初から来てくれている人、なんとレベルの違いがはっきりわかるではないか。思わず、今日から入った人に補習授業をしたくなってしまった。追いつきましょうねなんて。毎回の質問は素晴らしい。’お’と;を’の違いは、文法の迷路にはまってしまうようだから、避けて通ろうとしても、使ってるはしから、あれ!と、質問が出てくる。’ください’もしかり。私の英語を理解するだけでも大変だろうと思うのに・・・。そして、同時に、私もこんなに、英語をまともに話したいと思ったことはない。帰り際、二人のキャロルが駐車場まで歩こうと待ってくれていた。今日は、そこに一組の親子が現れた。息子さんを日本語授業に入れて欲しいと言われた。明らかにアメリカ人のお母さんは、この子のおばあちゃんが、日本人だから日本語を習わせたいという。もちろん大歓迎ですよ。同時に、私は是非その方に(おばちゃん)に、お会いしたいですと申し出た。ほんとに自然な会話だった。そして、そのこともとっても喜ばれた。加えて私は言った。是非私に英語を教えて欲しいです、と。
まったくもって仰々しい題になった。クローズアップ現代という、素敵な女性キャスターが時事問題を取上げるNHKの番組がある。以前に、その番組で、韓国は国家戦力として、映画や、歌を海外に輸出しようとしていると取上げていた。日本がハイテクの産業技術を輸出していると同じようにということ。国家が支援している産業に、映画や歌がなっているというのだ。その時は、へえええええ、と流して聞いていた。そしてまさか自分がその一角にすっぽりとはまってしまうとは夢にも思わなかった。韓国の国家戦略に、ひっかかったといえば語弊があるから、やっぱりはまったのかな。先日、その他のところで傍観してる友人に、どこがいいの?と、聞かれた。私は、他の人たちとはちょっと違ってねという、大勢の人たちと同じように、自分ではちょっと違うと思っている。そこが、実は同じだということにも、自分では気付いているつもりだが、どうだろうか。冬のソナタとチャングムしか見ていないけど、何度もひきつけれらるように、見たいと思う。どこか、自分にはない、だけどあるべきだと思っていたものがあるのだろうなあ、と、思う。女性主人公の生きる姿勢かな。正直で、誠実であろうとする。そして、決して自分を偽らない。こんなに辛い思いをするなら、諦めてしまおうとか思わない。必死に自分を立て直しながら、静かに耐えて、自分が思いを寄せる相手の気持ちに沿おうとしているようにみえる。日本の演歌の世界と全く違う、女性の自立した生き方を感じる。また、自分で自立して生きていける、能力もスキルもきちんと持っている。泣き叫びながら、自分の人生を卑下したりは決してしない。誰かのために何かをする愛もあるけれど、相手が求めるように受け入れる愛情もあるのだと、思った。言葉にすると難しい。ただ単純に、好きだからでいいのかもしれないと思う。