新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Shakey'sにダッシュ

2013-11-25 08:32:34 | コラム
矢張り自分の国の食べ物が良い:

当方は在職中に数え切れないほどのアメリカ人その他の外国人を、我が国で案内したものだった。同様にあの広いアメリカでも、多くの同胞を今日は南明日は東と、ご案内していた。

その際に遠来のお客様が最も気にされる最大の問題点が食事だったので、この点には数々の思い出がある。先に結論を言ってしまえば「異国でその国の最高の部類に入る独特の食事を続けていても、最後にはファストフードだろうと何だろうと、矢張り自国の料理に優るものはない」となるのだ。

1988年に他の事業部だったが、副社長兼事業部長率いる販売担当副社長以下管理職の約30名の団体の一員として、「日本全国の最も管理能力に優れた工場を見学して日本に学ぶ」というツアーに参加したことがあった。

この時は行く先々で訪問先のご配慮で最高の歓迎を受け、その地方の名物的な極めて質の高い日本料理を連日連夜味わえる機会が与えられていた。勿論、大企業の管理職以上であれば最大級の賛辞を述べて、馴れない日本食を食べ続けたていた。因みに、この事業部には初来日の者が多かった

その旅の半ば頃に京都市内で一泊となった。ホテルに着く前に確か新京極辺りで"Shakey’s"の看板が見えた。そこで、それを告げると全員の目が輝いて「ホテルから近いのか」と叫び声が上がり、「場所を覚えておけ」と要求された。ホテルに着くやいなや全員はチェックインもそこそこに、着替えもせずに「ペッパローニ、ペッパローニ」と唱えて"Shakey’sに向かって当方を先頭にダッシュした。彼らは「これに優るものなし」と喜色満面でピザパイを食べ続けたものだった。

それよりも後で1990年代に入ってからだったが、我が事業部の工場の技術者と現場の組合員からの選抜された者たちを「自分たちが製造した紙が日本の現場でどのように印刷・加工され、小売店で販売されているか」を巡回・視察して勉強するツアーを行ったことがあった。

この団体は上記の副社長以下の管理職ばかりの団体ほどではなかったが、各地でご馳走にもなった。しかし、自社の経費で日本食を食べ続ける日々が続いた。尤も、言うまでもないことだが彼らのホテルでの朝食は和食ではない。それでも1日2食の日本料理はかなり負担だったようだ。

ある日、日程が早く終わって午後3時頃に宿泊先の帝国ホテルに戻ってきてしまった。そのバスの中から今は無き三信ビルの向かいに"Golden Triangle"と彼らが呼ぶ"McDonald’s"の看板が見えた。彼らはそれを見逃さなかった。矢張り、荷物を部屋に放り込むやいなや、全員が一目散にマックに向かった。引率していた訪日経験豊富な技術サーヴィス・マネージャーは「国に帰れば毎日でも食べられるものなのに、矢張り彼らは日本食よりもこっちが向いているのか」と言って苦笑いだった。

しかし、このように自国の食べ物に執着するのはアメリカ人だけに限ったことはない。やはり、米飯と味噌汁と漬け物で育ってこられた多くの同胞は和食の提供がないアメリカのホテルでの宿泊が2日も続けば苦痛のようであり、アメリカ側の心尽くしの洋食の接待もただひたすら我慢されているようだった。それだけに、シアトルのように比較的日本食の料理店が多い街では生き返ったような表情で楽しまれる。

そこを承知していた我が社では、ある時に工場にご案内したアメリカの第1日目に、ケータリング・サーヴィスを呼んで野外で寿司の屋台でお楽しみ頂く夕食会を催して大いに喜ばれたことがあった。「アメリカまで来て野外で食べた寿司は素晴らしかった」とこの企画は大受けだった。

私は上記のシェーキーズやマクドナルドに殺到したアメリカ人の例からしても、「日本人は外国に行っても米食から離れられない」などと自虐的なことは言わない方が良いと思うのだが。

私自身のことを申し上げれば、戦時中の何ら食べるものがない時期に育ち、「欲しがりません勝つまでは」だったので、美味い不味いよりも何でも食べられるのである。であるから、アメリカでも何処の国でも食べ物で困ったことはないし、食べてはならないものは現地の駐在員ないしは同胞の指示に従っている。