新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月6日 その2 「言ってはいけない」こと

2017-03-06 08:34:24 | コラム
言ってみたいことがある:

橘 玲の著書に「言ってはいけない」というのがある。私もその題名に倣って、言ってはいけなだろうようなことを言ってみたくなった。とは言って見たものの、既に言ってしまったことに「石原君は裁可の責任の所在を認めたではないか」がある。

石原問題:
だが、どのテレビ局を見ても、小池都知事に気兼ねをしたのかどうか知らないが、都議会が参考人招致をするのしないのと言い出して、小池都知事が石原さんは逃げてばかりおられると批判的なことを語って以来、豊洲問題の全責任というか東京ガスの負担分が少なかったことは石原君のせいであるという風潮が出来上がり、彼がリハビリなのであろう散歩に出かける所まで取材陣が追いまくるようになった。

特にあの評判が悪かった3月3日の記者会見の後では、各局に登場するゲストや解説者やマスコミ出身者は恰も「石原氏を悪者にせよ」か「責任回避の姿勢を批判せよ」と意を含められていたかのように、石原君に非難の嵐を浴びせた。司会の読売の橋本などは「それでは知事は要らないと言われるのですか」と我が国の(稟議)の組織を知らぬかのような居丈高の口調で迫ったのは「流石だ」と呆れさせてくれた。

既に指摘したが、BSフジのPrime Newsでは鈴木哲夫氏は「小池都知事の石原攻めの手法には来たるべき都知事選挙対策の臭いがすると言える」と言わされていた。そこまで本当にその縛りがかかっているとは思わないが、マスコミが挙って「石原怪しからん」に傾いているのも如何なものかと思うのだ。一都民としても、都民の税金をあれほど多額に注ぎ込んだ豊洲を金利をも何物をも顧みずに放置する決定をした責任が誰にあるのかと、あらためて言いたい。この件で少なからず驚かされたのは産経抄までもが石原批判派だったこと。

次は森友学園問題:
心配性の私は安倍内閣はこの事案の処理を誤ると、とんだ結果になりかねないと危惧していると既に述べた。しかも、国会での担当官庁の幹部の答弁がやや不明解というか、何かを隠しているのではないかと野党、しかも共産党に突っ込まれるような点が多く、民進党の小川敏夫も居丈高にさせてしまった。6日には存在感が薄れた村田某も質問するそうだが、内閣も官庁も適切に処理して欲しいものだ。

支持率も高い安倍内閣を何とか叩こうとする野党はこの森友問題のように10億円にも満たない少額の事案で、政府を何としても攻め上げる構えである。だが、現在ではアメリカが新大統領の下に一時も目を離せないような理解に苦しむような政策を打ち出すだけではなく、大統領令も乱発したし、中国とも何時事を構える気のかのも読みにくいし、北朝鮮では叔父どころが兄まで殺害する指導者が、何時またICBMを発射するか不明な不安定な国際情勢である。

そんな時に、内閣の揚げ足取りをしていて良いのかと、何故方々で声が上がらないのか。野党は世界の何処を見ているのかという真っ当な批判が出ないのか。連日連夜、嬉しそうに「安倍首相頑張れ」だの「金かこんにゃくか知らんが、投げ返したった」という愚にもつかない場面を再生してみせるのか、テレビ局は。少しは野党の姿勢を批判し非難しても良くはないか。何故、国民の目を世界の情勢から逸らそうとするのか。理解出来ない。


カタカナ語の誤り

2017-03-06 07:32:34 | コラム
「タッグを組む」って何のこと:

近頃、多くのテレビ局では政治家でも芸人でも良いが、「誰かと誰かがコンビ(カタカナ語だ!)を組むこと」を「タッグを組む」と言うようになった。明らかに言葉の誤用だが、この誤りは何処から来たのかと、ふと考えてみた。これは間違いなく、大分以前に流行ったプロレスの試合形式の一つである「タッグ・マッチ」(=tag match)または「タッグ・テイーム・マッチ」(=tag team match)から発生したのだと思うに至った。

この形式では2人が1組にで戦うもので、選手交代の際に後を引き受ける者の手を触る(即ち、誤ったカタカナ語で「タッチする」のこと)のであった。「触る」か「触れる」は英語では“tag”であって“touch“ではないのだが、野球用語では何故か「タッグ」ではなく「タッチ」となっていた為に、ここでも「タッグ」がおかしな解釈をされて「誰かと組むこと」のようになってしまったのだと思う。正確を期せば「タッグ・テイームを組む」と言うべきだ。

であるから「タッグを組む」は明らかな誤りで「触れる事を組む」となっているのだ。今日に至るまで“tag”と“touch”の混同か解消されず、野球では「タッチアウト」や「ランナーにタッチした」という風に使われている。この辺りに言葉の誤用だけではなくて、文法的な誤りまであるのがカタカナ語化に屡々見られるのだ。即ち、「タッチアウト」は過去のことなので(屁理屈的だが走者に触れた時点では審判は「アウトを宣告していない)英語は“tagged out”となっている。

「如何にも揚げ足取り的でうるさい」と思う方は多いと思う。だが、このように英語という小うるさい言語には細かいことを言う文法があるし、文法を間違えることは教養の問題であるとする厳しい人たちも支配階層も存在するのを忘れてはならない。小学校3年から英語を教えて国際化がどうのこうのと言うのならば、このような分法的な誤りを何時か何処かで誰かが正すべきではないのかな。

同様にテレビでは平気で「~をゲット」などと過去の出来事を現在形でカタカナ語化している。英語とは我が国と言語・風俗・習慣・思考体系が異なる国の言葉であるということを無視してはならない。そういう誤ったカタカナ語が蔓延っている環境の中で「科学として英語」を小学校から試験中心の手法で教え込む気かと思うと、先が思いやられるのだ。