新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日米間の野球文化を考えると

2017-03-23 09:20:57 | コラム
三振を数多く取っても負けた日本野球:

本心では「負けた侍野球」としたかったのだが、「侍ジャパン」という名称に抵抗感もあるし、好ましいとは思っていないので避けた。「侍」という呼称は故篠竹幹夫監督が率いた日大フェニックスだけに止めておけば良いと思っている。未だ45歳の小久保裕紀が監督であるテイ―ムには相応しくないし、私には時代感覚の欠如としか思えない。尤も、我が国の野球界には伝統もあるのだだろうが、古い仕来りが多すぎるとしか思えないので、侍でも良いのかも知れないと勝手に割り切っている。

日本時間22日のWBC野球の準決勝の対アメリカの試合は負けたの残念だったが、それなりに大変見るべきところが多い野球だった。掲題に従って論じれば「あれほどアナウンサーが興奮して三振とを取った」と何回も叫んだ割には、一桁の三振しか獲れなかったアメリカにやられたのは何でだろうかと考えてみたい。

このWBC野球では最初から投手の投球数に制限が設けられていた。それが投手の肩の消耗を防ぐための目的なのか知らないが、一向に腑に落ちる説明を聞かせてくれていなかった。そういう形での試合を見ていて感じたが、今や売り出しのソフトバンクで育成から上がってきたという枕詞がつく千賀投手が二次予選だったかで、三振でバッタバッタとなぎ倒していたのは大変素晴らしかったが、アッという間に投球数が増えてしまった。確か相手方の投手の同じ回数での投球数は遙かに少なかった。

ここに我が国の野球とそれを中継するテレビ局の文化があるのだと思う。確かに三振を数多く取る投球は華々しいし、見ている者も興奮させてくれる。だが、三振を取るためには全力を挙げて自分の持ち球を力を込めて投げ込み続けねばならない、それも最小でも3球を。即ち、毎回全員を三振にとって9回を投げれば81球を要するのだ。しかし、もしも毎回各打者の1球で仕留めて9回投げきっても27球と三振主義の3分の1という省エネ投法になる。どちらが投手のエネルギーと肩を消耗させるのかは言うまでもあるまい。

解説者は口を揃えて「アメリカの投手は動く球を数多く投げる」と言う。即ち、微妙に動くので「来たな」と思って振りに行くと思ったところと違うので、芯で捉えることが出来ずに凡打になるという寸法だ。意外にも身体能力に優れ力持ちであるアメリカ人の方が省エネ投法に走っているようなのだ。誤解なきよう申し上げておくが、私は省エネ投法の方が優れていると言っているのではない。だが、三振至上主義では常に全力で神経の集中を絶やすことなく投げ続けるので、何処かで消耗して集中が切れた時に打たれてしまうのではないかなと考えているのだ。

菅野はあれだけ良く投げたが、たった1本を危機の場面で打たれたヒットで失点した。千賀も好投して三振を取り続けたが、矢張り打たれた上に松田のあの記録には出ない失態で決勝点を取られてしまった。因果なものである、野球という競技は。私にはあの試合は良い投手を注ぎ込んで守るのに精一杯で、打つ方にまで神経が回っていなかったのではないかのように見えていた。更に言えば「我が国のバッテイングの特徴であるジックリと選んで自分の好きな球が来るのを待つ方式」が動く球に負けたという気がする。

一方のアメリカ野球は「全員が我も我もという各人の個性の主張が特徴で、打つ方ではテイ―ムの為よりも何よりも自分の手柄にしてやろうとばかりに局面も何も考えずに、来た球を打って勝負してやろう」というのだと思っている。であるが故に、彼らは三振を厭わない。それは勝負を賭けた結果であるからだ。この点は、前高野連会長の脇村春夫君が「見送り三振を極めて非難したこと」と似ている。尤も、脇村君はアメリカからの帰国子女であるから、アメリカ野球の思考回路が組み込まれていたのかも知れない。結論的に言えば「個性豊かに力で勝負をする」のがアメリカ野球の文化であろう。

昨日の野球は身体能力の点からの力不足を何とか神経を集中して三振を取りに行き、打つ方ではじっくりと待つ日本式の全員が一丸となる野球が、「個性と勝負を仕掛ける強力な身体能力を基礎にした力一杯の野球に負けたのだと思っている。しかも、トーナメント方式で慣れぬ天然芝で雨中に野球をやらされたという不利もあったので、同じ顔触れでもう一度やれば勝ったとも言えると程度の実力差しかなかったと思う。だが、いくら頭脳で勝負しても体格と身体能力の差は埋めきれないのかとも思う。