新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月6日 その2 海水浴の季節

2017-08-06 14:39:55 | コラム
海ほど危険なところはないと思うが:

題名を「海ほど」ではなく「海水浴」としても良かったかも知れない。テレビなどでは著名な海水浴場の賑わいや、はた迷惑な海水浴客の酷い礼儀作法などを報じている。だが、彼らは中々海水浴の危険性を採り上げて報道することはないようだ。私は昭和16年から37年まで鵠沼海岸(これは小田急の駅名で、住所は鵠沼だったが)に近いところに住んでいたので、あの海岸(江ノ島の西浜海水浴場の更に西側になる)の仮令油断しなくても命に関わる危険性があることを良く知っていた。

要するに「如何に海を楽しむか」である。少なくとも飲酒の場ではない。従って、マスメディアが海水浴を無闇に採り上げて騒ぎ立てるのは好ましくないと思っているし、一般論としても海水浴は要注意であると言いたいのだ。

それは何故かと言えば、海はろくに泳ぐことも出来ない人に配慮して波を立てたり、海面下で沖の方に強く引いている潮の流れを管理したりしてはくれないからである。江ノ島の東浜辺りは言わば入り江のような作りなので比較的安全だとは思うが、それとても相手は自然である海なので、「自分は大丈夫」などと思い込んではならず、絶対に油断は出来ない。

この鵠沼海岸では海面下の引き潮はまっすぐに沖の方に向かっているのではなく、かなりな勢いで西に向かっているのだ。その為に「俺は水泳が上手いのだ」などと錯覚を起こして沖に向かっていると、何時の間にか遙か西の辻堂海岸の方に寄っており、一寸くらい足掻いても元来た方向には戻れないようになるのだ。忘れてならぬことは、引き潮が強いということは沖の方に向かっては快調に進むという点だ。実際に、往年の鵠沼海岸では何人もの溺死者を見ていた。

私は1974年4月に本当に風光明媚な白い砂浜が綺麗なフロリダの海岸で「折角来たのだから」と一寸泳いでみて、その鵠沼海岸以上の引きの強さを関知して直ちに引き上げたのだった。それ以前にも、海水浴は避けていたし、子供たちを連れていこうなどとは考えていなかった。それだけではなく、私はあの海水で体がベトベトになるのがイヤだったので、海の直ぐそこにある市営だったかのプールには行っていたが。

少し長すぎる導入部になってしまったが、私は海岸に浩然の気を養いに行くとか、何処まで続いているのかも知れない海を見て楽しむのは良いことだとは思う。だが、生命の危機を招くような危険な遊び方をしに行く場所ではないと思っている。ましてや、遊び回って直射日光に当たって脱水症状に近い体で、水分を奪ってしまうような飲酒をするのは論外であると思っている。だが、今やそういう認識がある海水浴客は少ないようである。

戦前か戦時中を回顧すれば、あの広い鵠沼海岸にはいくつかのパラソルが立っていて、精々20~30人程度の地元民が砂浜で寛いでいるだけの長閑な場所だった。先週だったか、テレ東で現在の鵠沼海岸の特集を流していたが、良い意味では近代的に開発され、昔を知る者にとっては限りなく俗化されていた。あそこに群がっている若者たちは「引きが強く西に流される」と承知なのだろうか。

フロリダの海岸でも、所謂甲羅干しをしていた女性は見かけたが、泳いでいる人はほとんどいなかった。何となく、この辺りにも日米間の文化というか習慣の違いがあるように思える。私は海は遠くからでも近くからも眺めているのが無難だと思っている。私は江ノ島電鉄で片瀬から鎌倉に向かう車中から眺める海の美しさが素晴らしいと思う。海は眺めるもので、泳ぐ場所ではないと思う。それくらいで十分だ。

英語の挨拶は難しい

2017-08-06 10:38:46 | コラム
英語での挨拶における”see”と”meet”の使い分け:

渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」第4436号に、読者の方から私にとっては極めて難しい問題であるseeとmeetの使い方の質問があって悩んでおります。そもそも、私は英語での初対面の挨拶を得手としておらず、何時も何と言えば良いのかなと迷っておりました。アメリカの会社の一員として社内の者か、社外の方にアメリカ国内で会う時にしか初対面の挨拶をすることはないので不慣れでした。

実際に何と言っていたかの正確な記憶はありません。何と言えば良いかと瞬間に迷い、何か口から出たままを言っていただろうという程度の記憶です。如何にどのように答えたかをほんのご参考までに紹介します。

恐らく、社内では“I am so pleased to meet (またはsee) you.”のような決まり切った形では言っていなかったと思います。精々“Hi, Good to see you.”くらいではなかったと思います。しかし、“Good to meet you.”とは言わなかったかと思うのです。これは何となく流れが良くないと思っていました。教えられたようなseeとmeetの区別をするようになったのは大分後年です。

ご指摘の本のこと(meetは初対面の時に使うと記載)は存じませんし、そういう区別を意識して話してはいませんでした。それと言うのも、私にとっては英語とは子供の頃から習い覚えた話し言葉であり、自然に口から出たままでしゃべっておりました。「何か言いたいことを考えてから言うな」と教えられていましたし、その通りにしていました。私は学者でも何でもなく、1994年1月末のリタイヤー後から、我が国の英語教育の素晴らしくなさが心配になって色々と論じ始めただけです。

何か逃げているかのような言い方ですが、旧制中学で英語を教えられ始めた頃と、話すことを教え込まれた時期がほぼ同時でした。中学ではキチンと文法も教えられ、上智大学では千葉勉教授に品格がある英語を厳しく指導されました。何度も申し上げたことですが、何かを考えてから英語で話すのではなく、自然と口から文法的にも品格的にも正調な英語が出てくるように心掛けてきました。また、1975年からは極端な表現をすれば、東京駐在であっても1年の3分の2は英語で話して仕事をする環境にありました。

仲間内の会話の表現では、何か打ち合わせでも終わった時に”Nice meeting you.”とは言いますが、何故か、”Nice seeing you.”とは聞いたこともなく言ったこともありません。余談ですが、”Nice talking to you.”では「語り合えて良かったな」とでもなるでしょうか。別れる時には、ほぼ”See you, later.”で、もう生涯会うことがないだろう人に初めて香言われた時には当惑しました。また、上海の地下鉄を案内してくれた見ず知らずの中国人の青年には”See you, later.”と言われましたが、違和感はありませんでした。彼はかなりチャンとした英語で、会話の相手を探しているような感じでした。

以上のようなことで、seeとmeetの厳しい使い分けは、申し訳ありませんが、考えていなかったと思います。言葉は悪いかも知れませんが、その場その場でのことです。そこで、大学の頃に経験したある挿話を紹介して終わります

それは、会話を担当していたアメリカ人の教授に、“arrive in”と“arrive at”の違いを尋ねた同級生がいました。答えは「どちらでも解って貰えるという点では同じ。そういう学問的のような細かいことにまで拘泥しなくても良いのではないのか。思い浮かんだままで話せば十分。だが、質問に答えれば、inの方は何処か広い地域に到着したこと、atの方が特定の場所を指す時に使う。例えば、“I arrived in New York at the JFK airport.”のように」でした。

何ともとりとめのない答え方でしたが、私の挨拶についてのエッセーであるとお考え下されば幸甚です。