1972年8月に初めてアメリカ本土に渡った:
ここでは「私が長年慣れ親しんだアメリカ」を語って見よう。
先ほど「私が知っているアメリカは、全体を100とすれば精々20程度」と言ったが、その根拠はアメリカに全部で50ある州のうちで20州では空港の外に出た経験がある州を数えたので、それ以上のものではない。アメリカについては、イギリスから渡ってきた人たちが作った国で、その後に欧州からも渡ってきた者が多く、アフリカから連れてこられた奴隷の名残で黒人がいるくらいは承知していた。
しかし、羽田から今はなきパンナムでサンフランシスコに入り、更に飛行機を乗り継いで恐る恐る目的地のジョージア州・アトランタに着いたのは確か真夜中だった。そこまでで出会ったのは白人だけで、南部の都市であるアトランタでも南部訛りには面食らったが、黒人は見かけなかった。空港から不安とスーツケースを抱えて乗ったホテルまでのバスを運転していたのも白人だった。
その何日か後にオハイオ州・デイトンを経て到着したニューヨークでは、道路工事の作業員も白人で皆がチャンと英語を話しているのには、訳も解らずに感動していた。この初めてのアメリカ出張では25日間滞在したが、何処に行っても黒人に出会うことはなかった。当時は余りそういう意識もなく、唯々アメリカとは素晴らしい国だと無邪気に感動していただけだった。
そのアメリカが political correctness だか何だか知らないが、何時の間にか negro も black も禁句となった模様で、「アフリカン・アメリカン」と言わねばならないようだと知ったのだった。しかし、私の勤務先でも取引先でも、アフリカ系アメリカ人の社員が存在することは先ずなかったので、差別があるとかないとか意識する前に「アメリカとはこのように白人の世界だったのだ」と何となく認識するようになっていた。
更に細かく言えば、仕事上ではなくと、シアトルでもアトランタでもシカゴでも何処でも、買い物にも出掛けるし、食事にだって出掛ける。そういう先で、アフリカ系の店員なりウエイターかウエイトレスに出会うことは、ホテルのダイニングルームを除けば先ずないことだった。しかし、ニューヨークでもシカゴでもヒスパニックには当たり前のように出会った。
私が好んでネクタイその他の紳士用品を買いに行った店やバーバリーだのブルックスブラザース、ラルフローレン等々では店員は皆白人だった。馴染みになった化粧品を買っていたデパートの店員も愛想が良い白人男子だった。しかし、シアトルの近辺では、これという人気がる日本料理屋は韓国人の経営でウエイターでも誰でも、韓国語で話しかけて正体を見破って楽しんでいた。
中でも印象に残った出来事が、往年の大統領御用達の紳士用品のアメリカ最高のブランドであるSulka のサンフランシスコの店では、珍しく応対されてしまったアフリカ系の店員が横柄な口調で「Sulkaと知って入ってきたのか」と尋ねるのだ。失礼なと怒って「知らないで入ってくるか。ここのネクタイを何本持っていると思うのか」と切り返すと、手のひらを返すように態度が変わり「是非共当ブランドのカタログを貰って下さい」と言って持ってきた。彼らは東洋人を下の如くに見るのかと一瞬疑っのだった。
また、1980年代までは治安に問題ありとして先ず連れて行かれることは希だったロスアンジェルス(LA)市内では、確かに韓国系もアフリカ系の数多く見かけたものだった。この傾向は明らかに悪化(?)して、2012年にYM氏とSM氏に案内された訪れたLAの近郊でもヒスパニックと韓国人ばかりで「今後カリフォルニア州に出掛ける方は英語よりもスペイン語と韓国語を学んでからの方が現実的で役に立つだろう」と旅行記で皮肉ったほどだった。
1992年4月に起こったロスアンジェルス暴動は、Wikipedia によれば、以下のように解説されているが、表面的にはアフリカ系の人たちの仕事だった下層の労働を韓国人が奪い去っていたことに対するアフリカ系の恨みが現れたと伝えられていたと思う。そうだろうと解る気もするほど、単純反復労働の職場には韓国人が著しく増えたと思っている。
>引用開始
ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警察官への無罪評決をきっかけとして、突如起こったかのような印象で日本では報道されることが多かったが、その潜在的要因として、ロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロスアンジェルス市警察(以下「LA市警」)による黒人への恒常的な圧力、韓国人による度を超した黒人蔑視、差別に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。そこにロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件における韓国人店主への異例の軽罪判決が引き金となり、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。
<引用終わる
このように増え続ける少数だったはずの民族が今や白人の人口を凌駕するのも遠くないだろうと言われている。その非白人やイスラム教徒の流入を食い止めたいとするトランプ大統領の大統領の発令も解る気にはなる。だが、22年半のアメリカの会社勤務の間に一度も話題にならなかったし、誰も語ろうとしなかったほどの微妙な案件に、大統領が触れたのは得策ではなかったようだと思う。
私は自分が少数民族の一員なのか、一部で古くから言われた「名誉白人?」なのか等に思いが及んだことはなかった。だだ、アメリカの会社の一員として職の安全(job security と言うと何度も述べた)の為に、何とかして彼らの中に溶け込んで「一員である」と認識させようと懸命だった。その為には、何とかして対日輸出で成果を上げていくしかないのだった。
では、私か彼らの一員として認められていたかとお尋ねか。ある時「君が話している英語と仕事ぶりと、着ている服や持ち物を見ていれば、てっきり心を許しても良いだろう仲間の一人だと誰しもが思うだろう。だが、君の正体は何処まで行っても骨の髄まで日本人なのだ」と同僚に言われたことがあった。これは果たして褒め言葉か、それとも仲間じゃないと言っているのか。悩んだものだった。だが、何処まで行っても、如何なる場合でも「日本人としての誇り」には徹底的に執着したものだった。
矢張り、最後に英語の講釈をすれば “You are a Japanese to the core.” というのが、「骨の髄まで日本人だ」に当たる英語だった。
ここでは「私が長年慣れ親しんだアメリカ」を語って見よう。
先ほど「私が知っているアメリカは、全体を100とすれば精々20程度」と言ったが、その根拠はアメリカに全部で50ある州のうちで20州では空港の外に出た経験がある州を数えたので、それ以上のものではない。アメリカについては、イギリスから渡ってきた人たちが作った国で、その後に欧州からも渡ってきた者が多く、アフリカから連れてこられた奴隷の名残で黒人がいるくらいは承知していた。
しかし、羽田から今はなきパンナムでサンフランシスコに入り、更に飛行機を乗り継いで恐る恐る目的地のジョージア州・アトランタに着いたのは確か真夜中だった。そこまでで出会ったのは白人だけで、南部の都市であるアトランタでも南部訛りには面食らったが、黒人は見かけなかった。空港から不安とスーツケースを抱えて乗ったホテルまでのバスを運転していたのも白人だった。
その何日か後にオハイオ州・デイトンを経て到着したニューヨークでは、道路工事の作業員も白人で皆がチャンと英語を話しているのには、訳も解らずに感動していた。この初めてのアメリカ出張では25日間滞在したが、何処に行っても黒人に出会うことはなかった。当時は余りそういう意識もなく、唯々アメリカとは素晴らしい国だと無邪気に感動していただけだった。
そのアメリカが political correctness だか何だか知らないが、何時の間にか negro も black も禁句となった模様で、「アフリカン・アメリカン」と言わねばならないようだと知ったのだった。しかし、私の勤務先でも取引先でも、アフリカ系アメリカ人の社員が存在することは先ずなかったので、差別があるとかないとか意識する前に「アメリカとはこのように白人の世界だったのだ」と何となく認識するようになっていた。
更に細かく言えば、仕事上ではなくと、シアトルでもアトランタでもシカゴでも何処でも、買い物にも出掛けるし、食事にだって出掛ける。そういう先で、アフリカ系の店員なりウエイターかウエイトレスに出会うことは、ホテルのダイニングルームを除けば先ずないことだった。しかし、ニューヨークでもシカゴでもヒスパニックには当たり前のように出会った。
私が好んでネクタイその他の紳士用品を買いに行った店やバーバリーだのブルックスブラザース、ラルフローレン等々では店員は皆白人だった。馴染みになった化粧品を買っていたデパートの店員も愛想が良い白人男子だった。しかし、シアトルの近辺では、これという人気がる日本料理屋は韓国人の経営でウエイターでも誰でも、韓国語で話しかけて正体を見破って楽しんでいた。
中でも印象に残った出来事が、往年の大統領御用達の紳士用品のアメリカ最高のブランドであるSulka のサンフランシスコの店では、珍しく応対されてしまったアフリカ系の店員が横柄な口調で「Sulkaと知って入ってきたのか」と尋ねるのだ。失礼なと怒って「知らないで入ってくるか。ここのネクタイを何本持っていると思うのか」と切り返すと、手のひらを返すように態度が変わり「是非共当ブランドのカタログを貰って下さい」と言って持ってきた。彼らは東洋人を下の如くに見るのかと一瞬疑っのだった。
また、1980年代までは治安に問題ありとして先ず連れて行かれることは希だったロスアンジェルス(LA)市内では、確かに韓国系もアフリカ系の数多く見かけたものだった。この傾向は明らかに悪化(?)して、2012年にYM氏とSM氏に案内された訪れたLAの近郊でもヒスパニックと韓国人ばかりで「今後カリフォルニア州に出掛ける方は英語よりもスペイン語と韓国語を学んでからの方が現実的で役に立つだろう」と旅行記で皮肉ったほどだった。
1992年4月に起こったロスアンジェルス暴動は、Wikipedia によれば、以下のように解説されているが、表面的にはアフリカ系の人たちの仕事だった下層の労働を韓国人が奪い去っていたことに対するアフリカ系の恨みが現れたと伝えられていたと思う。そうだろうと解る気もするほど、単純反復労働の職場には韓国人が著しく増えたと思っている。
>引用開始
ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警察官への無罪評決をきっかけとして、突如起こったかのような印象で日本では報道されることが多かったが、その潜在的要因として、ロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロスアンジェルス市警察(以下「LA市警」)による黒人への恒常的な圧力、韓国人による度を超した黒人蔑視、差別に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。そこにロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件における韓国人店主への異例の軽罪判決が引き金となり、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。
<引用終わる
このように増え続ける少数だったはずの民族が今や白人の人口を凌駕するのも遠くないだろうと言われている。その非白人やイスラム教徒の流入を食い止めたいとするトランプ大統領の大統領の発令も解る気にはなる。だが、22年半のアメリカの会社勤務の間に一度も話題にならなかったし、誰も語ろうとしなかったほどの微妙な案件に、大統領が触れたのは得策ではなかったようだと思う。
私は自分が少数民族の一員なのか、一部で古くから言われた「名誉白人?」なのか等に思いが及んだことはなかった。だだ、アメリカの会社の一員として職の安全(job security と言うと何度も述べた)の為に、何とかして彼らの中に溶け込んで「一員である」と認識させようと懸命だった。その為には、何とかして対日輸出で成果を上げていくしかないのだった。
では、私か彼らの一員として認められていたかとお尋ねか。ある時「君が話している英語と仕事ぶりと、着ている服や持ち物を見ていれば、てっきり心を許しても良いだろう仲間の一人だと誰しもが思うだろう。だが、君の正体は何処まで行っても骨の髄まで日本人なのだ」と同僚に言われたことがあった。これは果たして褒め言葉か、それとも仲間じゃないと言っているのか。悩んだものだった。だが、何処まで行っても、如何なる場合でも「日本人としての誇り」には徹底的に執着したものだった。
矢張り、最後に英語の講釈をすれば “You are a Japanese to the core.” というのが、「骨の髄まで日本人だ」に当たる英語だった。