英語がペラペラの閣僚が4人も:
何処の局だったか、今回の内閣改造で英語がペラペラ(堪能と言っても同じかも?)な閣僚が4人もいると報じられていた。先ほどTBSのゴゴスマとやらでゲストの深谷隆司氏がハーバード出身者だけでも3人いると言われたし、誰だったかが「河野太郎氏もアメリカの大学卒で英語で講演をしても何の問題もなく英語で冗談が言える力がある」と言っていた。因みに、3人のハーバード出身者とは上川洋子氏(修士号あり)、林芳正氏(修士号あり)と茂木敏充氏である。
頼もしいことだ。Twitterを乱発されるトランプ様にお目にかかって諫言でもしようとする時に通訳を使っては迫力が出ないかも知れないではないか。因みに、W社ジャパンに駐在していたワシントン大学のMBAであるJ氏は私を厳しく指導してくれた我々と同等乃至はそれ以上の人本語能力を持つ日系人だった。その彼でさえ、社外の公式な場面では安心して話せる英語で語ると言っていた。外国語にはそういう微妙な点があるものだ。
私は日頃から「英語の品格」ということを言ってきた。それはどういう意味かと言えば「人はその身分相応な品位がある言葉遣いをするべきであり、ただ単にペラペラ話せるだけでは不十分である」ことを指している。これだけでは未だ説明不足なので、アメリカ人の会社で習い覚えた英語表現の意味や微妙な差異(カタカナ語では「ニュアンス」というフランス語が使われている)を示す例文を挙げて参考に供したい。
「ウンザリだ」と意味を表すのに、”I felt tired of his long speech.”と、”I felt disgusted to hear his long speech.”の他に、”I felt sick and tired of listening hid long speech.”という言い方もある。アメリカ人にこの三つの違いを尋ねてみれば、3番目は余りにきついので、意味が似ていても気安く使わない方が良いと教えられた。知らなかった。
「お目にかかれて~」の挨拶では、我が国では”Nice to meet you.”が普及しているようだ。だが、これも(支配階層にある)アメリカ人に聞くと「何と”meet”は目下か年下に対して使う言葉であり、無難な表現は”nice to see you”であろう」と言われた。何れにせよ、私は見ず知らずの人に向かっていきなり”Nice to meet you.”は非常に不躾であり、少なくとも、”I am so glad to see you.”くらいは言うべきだと思っている。この場合には他にもいくらでも言い方があって、”It is a great honor to have an opportunity to see you here, today.”なんて言えるのだが。
「何とかやってみましょう」を何と言えば良いかだが、私は1975年だったかに上司に面倒な課題を与えられてついうっかり、”I will try to see what I can do about it.”と決意表明をして、不快な顔をされた。それでは「「やり遂げる」という確固たる意志が見えないと言われた。彼が望んでいたのは”I’ll be sure to get it done.”だったのだそうだ。これが決意表明となっているのだと教えられた。
この三つの例文で何が言いたいのかと言えば、私は幸いにしてアメリカ人だけの中にいたので、支配階層の人たちに理解される表現を学ぶ機会を与えられた。そうではなく大学や大学院で学んでいる間にこういう微妙な違いまで学べるのだろうか、または品格を備えた英語まで指導して貰えるものかという単純な疑問である。私にはそういう気はしないのだ。
そこで、昨年の今頃発表した「英語の品格について」を少し長くなるがここに再録してみようと思う。私は英語力を備えられた大臣が数多く登場されたことは歓迎すべきだと思う。だが、深谷氏も言っておられたように、局面次第で通訳の力に依存すべきであるし、私を指導してくれたW社日本駐在だったワシントン大学のMBAの日系人のJ氏も同様な意見だった。彼の日本語能力は我々以上だったかも知れないが、彼は重大な場面では安心して話せる英語で行くと言っていたほどだ。
>引用開始
英語にも品格があるのを忘れるな:
私は屡々「英語の品格」ということを言っている。それは何かと言う前に「日本語にだって上品な言葉遣いや下品な話し方という区別があるではないか」と指摘しておきたい。そこには育ちもあれば氏素性も影響するだろうし、教育次第でもあるかと思う。日本語の場合は年齢や教育によってそういう区別の仕方は自ずと出来るようになってくるものだ。英語では「文法無視」やその中でも例えば「単数複数の区別がない」ような英語は無教養だと軽蔑される危険性があると知っておくべきだ。
だが、こと英語ともなれば、余程その道を深く究めるか、高い英語の能力を必要とする環境にある程度以上の期間身を置かない限り、何が綺麗で正確で教養と品格のある言わば支配階層の英語かなどということは、容易に見えてこないものだと思う。ましてや、我が国の英語教育では文法上の品詞は教えても、「口語」、「文語」、「慣用句」(=idiomatic expression)、「俗語」(=slang)、「汚い言葉」(=swearword)等の区別は教えられていないようだし、発音上の「連結音」(=liaison)や”r-linking”が教えられていないのは問題だと思う。これらは「品格に有無」の問題になるのだ。
私が1972年8月に生まれて初めてアメリカに行ってニューヨークに入った時のことだった。道路工事をしていた白人の労務者がチャンと英語を話しているのを聞いて「凄い。アメリカではこういう労務者だってチャンとした英語を話している」と、ただひたすら感動したものだった。
小学校の児童や子供に英語を仕込んで、それでなくともおかしな日本語しか話せず、おかしなカタカナ語を縦横に駆使するような者が増えた時代にあって、日本語を一層おかしくしそうな英語教育をして何の為になるのだろうか。カタカナ語のほとんどか文法無視である事を考えても、我が国の英語教育の素晴らしさ?が解ろうというものだ。
私が我が国の英語教育の中で素晴らしいと思う点は「非常に読解力が高くなるような教え方がされていること」なのだ。ある大学で英書講読などという難しい教科の原書を見せられて、私には到底理解出来ない内容を多くの学生さんたちが解釈出来るのには、驚くと同時に「俺はえらそうなことを言える立場にないのかも」と恥じ入ったものだった。
また、在職中に是が非でもアメリカの家庭にホームステイしたいと希望された重要取引先のT課長さんのお嬢さんを技術サービス部長L氏がお引き受けした。そこで、彼を案内してT氏の自宅を訪問した時に、高校3年の英語の教科書を見せて貰ったのだった。一読したL氏が叫んだのは「日本では高校生の時点から文学者を養成する気か。アメリカの高校ではこんな難しい文学的な英語は教えない。これは如何なる目的の教育か」だった。換言すれば、「余りにも難度というか程度が高く、アメリカの高校生程度の英語力では消化出来ないのでは」という意味だ。それを日本の高校で教科書に使っているので驚愕したという意味だった。
現実にアメリカで話され且つ書かれている英語は千差万別である。そのどれに品格がありインテリ階級というか支配階層の人たちと話す際に使っても恥ずかしくないのかは、余程長い間アメリカ人の中でも一定上の階層にある者たちと、日常的に英語で過ごしてみないと解るまい。さらに言えば、何が正確で良い英語で、どれが品位を欠く下層階級(小束は悪いが、トランプ大統領の支持層)かを実地に指導してくれる人がいて、初めて見えてくるものだと思う。
私は子供頃からの経験で、仲間同士で話し合う英語には不自由していなかった。だが、39歳でアメリカの支配階層のビジネスの世界に入り、そこで通用する英語は別物だと親切に指導してくれた日系人のMBAに出会って、初めて目が覚めたものだった。偉そうなな言い方をすれば、基礎が出来ていたので、その上に「支配階層の英語」を乗せることが出来たのが幸運だっただけ。だが、我が同胞の普通にビジネス社会で暮らす方が「支配階層の英語」を身につける必要がどれほどあるだろうか。
要するに、何を目指して、何の為に英語を使うのかを十分に意識乃至は認識せずして、ある程度以上に上級の英語を学ぶ意義が何処にあるのかという疑問である。更に言えば、「何が支配階層の英語かを認識出来ているのか」という問題もあるし、我が国にそういう英語を教えることが出来る人がそれほどいるのかという疑問もある。そんな難しいことを考えずに「やったー。通じた」という程度を目指すのかを、最初から決めてから取りかかるべきではないのか。
結論を言えば「何を目指して、どのような英語を、何歳から『小・中・高・大学の何処から教え始めるのか』をキチンと決めずして、小学校から教えて何になるのかな」という単純素朴な疑問だ。より具体的にいえば、当然のことながら軽佻浮薄で文法無視で、汚い言葉などを散りばめた教養の程度を疑われる「ペラペラ」などを目指してはならないのだ。品格を忘れて「通じるか、通じないか」を基準にしてはならないのだ。一般的に「お里が知れる」と言うではないか。
<引用終わる
読者諸賢は如何思われるだろうか。
何処の局だったか、今回の内閣改造で英語がペラペラ(堪能と言っても同じかも?)な閣僚が4人もいると報じられていた。先ほどTBSのゴゴスマとやらでゲストの深谷隆司氏がハーバード出身者だけでも3人いると言われたし、誰だったかが「河野太郎氏もアメリカの大学卒で英語で講演をしても何の問題もなく英語で冗談が言える力がある」と言っていた。因みに、3人のハーバード出身者とは上川洋子氏(修士号あり)、林芳正氏(修士号あり)と茂木敏充氏である。
頼もしいことだ。Twitterを乱発されるトランプ様にお目にかかって諫言でもしようとする時に通訳を使っては迫力が出ないかも知れないではないか。因みに、W社ジャパンに駐在していたワシントン大学のMBAであるJ氏は私を厳しく指導してくれた我々と同等乃至はそれ以上の人本語能力を持つ日系人だった。その彼でさえ、社外の公式な場面では安心して話せる英語で語ると言っていた。外国語にはそういう微妙な点があるものだ。
私は日頃から「英語の品格」ということを言ってきた。それはどういう意味かと言えば「人はその身分相応な品位がある言葉遣いをするべきであり、ただ単にペラペラ話せるだけでは不十分である」ことを指している。これだけでは未だ説明不足なので、アメリカ人の会社で習い覚えた英語表現の意味や微妙な差異(カタカナ語では「ニュアンス」というフランス語が使われている)を示す例文を挙げて参考に供したい。
「ウンザリだ」と意味を表すのに、”I felt tired of his long speech.”と、”I felt disgusted to hear his long speech.”の他に、”I felt sick and tired of listening hid long speech.”という言い方もある。アメリカ人にこの三つの違いを尋ねてみれば、3番目は余りにきついので、意味が似ていても気安く使わない方が良いと教えられた。知らなかった。
「お目にかかれて~」の挨拶では、我が国では”Nice to meet you.”が普及しているようだ。だが、これも(支配階層にある)アメリカ人に聞くと「何と”meet”は目下か年下に対して使う言葉であり、無難な表現は”nice to see you”であろう」と言われた。何れにせよ、私は見ず知らずの人に向かっていきなり”Nice to meet you.”は非常に不躾であり、少なくとも、”I am so glad to see you.”くらいは言うべきだと思っている。この場合には他にもいくらでも言い方があって、”It is a great honor to have an opportunity to see you here, today.”なんて言えるのだが。
「何とかやってみましょう」を何と言えば良いかだが、私は1975年だったかに上司に面倒な課題を与えられてついうっかり、”I will try to see what I can do about it.”と決意表明をして、不快な顔をされた。それでは「「やり遂げる」という確固たる意志が見えないと言われた。彼が望んでいたのは”I’ll be sure to get it done.”だったのだそうだ。これが決意表明となっているのだと教えられた。
この三つの例文で何が言いたいのかと言えば、私は幸いにしてアメリカ人だけの中にいたので、支配階層の人たちに理解される表現を学ぶ機会を与えられた。そうではなく大学や大学院で学んでいる間にこういう微妙な違いまで学べるのだろうか、または品格を備えた英語まで指導して貰えるものかという単純な疑問である。私にはそういう気はしないのだ。
そこで、昨年の今頃発表した「英語の品格について」を少し長くなるがここに再録してみようと思う。私は英語力を備えられた大臣が数多く登場されたことは歓迎すべきだと思う。だが、深谷氏も言っておられたように、局面次第で通訳の力に依存すべきであるし、私を指導してくれたW社日本駐在だったワシントン大学のMBAの日系人のJ氏も同様な意見だった。彼の日本語能力は我々以上だったかも知れないが、彼は重大な場面では安心して話せる英語で行くと言っていたほどだ。
>引用開始
英語にも品格があるのを忘れるな:
私は屡々「英語の品格」ということを言っている。それは何かと言う前に「日本語にだって上品な言葉遣いや下品な話し方という区別があるではないか」と指摘しておきたい。そこには育ちもあれば氏素性も影響するだろうし、教育次第でもあるかと思う。日本語の場合は年齢や教育によってそういう区別の仕方は自ずと出来るようになってくるものだ。英語では「文法無視」やその中でも例えば「単数複数の区別がない」ような英語は無教養だと軽蔑される危険性があると知っておくべきだ。
だが、こと英語ともなれば、余程その道を深く究めるか、高い英語の能力を必要とする環境にある程度以上の期間身を置かない限り、何が綺麗で正確で教養と品格のある言わば支配階層の英語かなどということは、容易に見えてこないものだと思う。ましてや、我が国の英語教育では文法上の品詞は教えても、「口語」、「文語」、「慣用句」(=idiomatic expression)、「俗語」(=slang)、「汚い言葉」(=swearword)等の区別は教えられていないようだし、発音上の「連結音」(=liaison)や”r-linking”が教えられていないのは問題だと思う。これらは「品格に有無」の問題になるのだ。
私が1972年8月に生まれて初めてアメリカに行ってニューヨークに入った時のことだった。道路工事をしていた白人の労務者がチャンと英語を話しているのを聞いて「凄い。アメリカではこういう労務者だってチャンとした英語を話している」と、ただひたすら感動したものだった。
小学校の児童や子供に英語を仕込んで、それでなくともおかしな日本語しか話せず、おかしなカタカナ語を縦横に駆使するような者が増えた時代にあって、日本語を一層おかしくしそうな英語教育をして何の為になるのだろうか。カタカナ語のほとんどか文法無視である事を考えても、我が国の英語教育の素晴らしさ?が解ろうというものだ。
私が我が国の英語教育の中で素晴らしいと思う点は「非常に読解力が高くなるような教え方がされていること」なのだ。ある大学で英書講読などという難しい教科の原書を見せられて、私には到底理解出来ない内容を多くの学生さんたちが解釈出来るのには、驚くと同時に「俺はえらそうなことを言える立場にないのかも」と恥じ入ったものだった。
また、在職中に是が非でもアメリカの家庭にホームステイしたいと希望された重要取引先のT課長さんのお嬢さんを技術サービス部長L氏がお引き受けした。そこで、彼を案内してT氏の自宅を訪問した時に、高校3年の英語の教科書を見せて貰ったのだった。一読したL氏が叫んだのは「日本では高校生の時点から文学者を養成する気か。アメリカの高校ではこんな難しい文学的な英語は教えない。これは如何なる目的の教育か」だった。換言すれば、「余りにも難度というか程度が高く、アメリカの高校生程度の英語力では消化出来ないのでは」という意味だ。それを日本の高校で教科書に使っているので驚愕したという意味だった。
現実にアメリカで話され且つ書かれている英語は千差万別である。そのどれに品格がありインテリ階級というか支配階層の人たちと話す際に使っても恥ずかしくないのかは、余程長い間アメリカ人の中でも一定上の階層にある者たちと、日常的に英語で過ごしてみないと解るまい。さらに言えば、何が正確で良い英語で、どれが品位を欠く下層階級(小束は悪いが、トランプ大統領の支持層)かを実地に指導してくれる人がいて、初めて見えてくるものだと思う。
私は子供頃からの経験で、仲間同士で話し合う英語には不自由していなかった。だが、39歳でアメリカの支配階層のビジネスの世界に入り、そこで通用する英語は別物だと親切に指導してくれた日系人のMBAに出会って、初めて目が覚めたものだった。偉そうなな言い方をすれば、基礎が出来ていたので、その上に「支配階層の英語」を乗せることが出来たのが幸運だっただけ。だが、我が同胞の普通にビジネス社会で暮らす方が「支配階層の英語」を身につける必要がどれほどあるだろうか。
要するに、何を目指して、何の為に英語を使うのかを十分に意識乃至は認識せずして、ある程度以上に上級の英語を学ぶ意義が何処にあるのかという疑問である。更に言えば、「何が支配階層の英語かを認識出来ているのか」という問題もあるし、我が国にそういう英語を教えることが出来る人がそれほどいるのかという疑問もある。そんな難しいことを考えずに「やったー。通じた」という程度を目指すのかを、最初から決めてから取りかかるべきではないのか。
結論を言えば「何を目指して、どのような英語を、何歳から『小・中・高・大学の何処から教え始めるのか』をキチンと決めずして、小学校から教えて何になるのかな」という単純素朴な疑問だ。より具体的にいえば、当然のことながら軽佻浮薄で文法無視で、汚い言葉などを散りばめた教養の程度を疑われる「ペラペラ」などを目指してはならないのだ。品格を忘れて「通じるか、通じないか」を基準にしてはならないのだ。一般的に「お里が知れる」と言うではないか。
<引用終わる
読者諸賢は如何思われるだろうか。