英語の嫌らしさの考察:
これは先日の「私の英語勉強法」を補うもので、日本語にはない考え方というか観念が多い英語という言葉を、あらためて分析しようとする試みである。このイヤらしさに付いていけない方が多いので、「どうにか通じた」とか「こっちからは何とか単語を並べて解らせたが、相手の言うことはサッパリ理解できなかった」などという結果になってしまうのだと思っている。
いや、後難を恐れて言えば、かかる違いがあることを良く理解できるように教えていないらしい、我が国の英語教育の問題点を論っているのかも知れない。こういう違いがあることを如何にも学問的に教えておられるようなので、教えられた方が懸命に理屈で考えようとするから、余計に混乱するようである。大体からして「語学」などと称するのは誤りで、英語なんて学問でも何でもないのだ。
そういう思い違いの指導の悪い結果というか例として、先日「ペラペラ風の英会話」の例文を挙げておいたので、出来ることならば思い出して頂けると有り難い。言うなれば、あの例は「面倒くささに負けて、易きに付いた結果である」と言いたい。
最初に名詞の複雑さを挙げよう:
日本語にない観念で我が同胞を悩ましている例に名詞に「可算名詞」(countable noun)と「不可算名詞」(uncountable noun)があることを挙げて良いだろう。前者を簡単に言えば「後に複数を表す”s”が付けられる名詞」のことで、”book”、”boy”、”house”等がある。だが、中には”paper”のように1枚の紙を表していながら”two sheets of paper”のようにsを付けない使い方があるのがイヤらしい。
不可算名詞には”service”、 ”water”、”help”、”bread”、”information”のような例がある。だが、困ったことに”service”などは”financial services”のように複数形でも使える例があるのだ。私が音読・暗記・暗唱を強調して勧める根拠に「こういう例がある以上、その場になってどっちだったかと迷わないように例文を暗記しておけば、イザという時に間違えないで済む」とお考え願いたいのだ。
次なるイヤらしさは「集合名詞」(collective noun)である。辞書には例として”committee”、”herd”(群れ)、”team”という単語が出てくる。本格的なイヤらしさはこれから先のことである。即ち、British Englishでは後に来る動詞を単数と複数の何れで受けても良いようだが、アメリカ語では動詞は単数形でなければならぬようである。現に私は単数形でしか考えていなかったのだ。だが、British系の人たちに「文法が間違っている」と指摘された経験はなかった。
更に「単複同形」などという例がある。そうは言ったが中々適当な例をも出せずに悩んだ。”Japanese”もそうだと思うし、”Chinese”もそうだろう。他には陳腐な例には”fish”もあるし、”deer”、”cattle”なんていうのもある。”people”なんていうのは常に複数扱いになっているので、この範疇には入らないのだろう。兎に角、こういう嫌らしさへの対応は理屈ではなく、例文で暗記しようと言っているのだ。兎に角、こういうイヤらしさの克服は「音読・暗記・暗唱」で例文を徹底的に記憶しておくことにあると申し上げておきたい。
動詞の変化:
名詞だけを考えてもこれほどややこしいのだから、こういう違いと後に付く動詞の変わり方を理論的に教えられ、しかも「試験に出すよ」などと言われては「何でこんな面倒なことを覚えなければならないのか」と英語嫌いが増えるだろうと容易に想像できる。私はこういう理屈を覚えることを一切無視して「音読・暗記・暗唱」に徹底しても、何故か文法はほぼ間違うことなく身に付いたのだった。しかも、先日例を挙げたように少なくとも、私を含めて4名の「音読・暗記・暗唱」での成功例があったのだ。
その他のイヤらしさ:
これら以外にある英語の嫌らしさの例には「定冠詞」と「不定冠詞」んの使い分け、「間接話法等における時制の一致」、即ち、現在形・過去形・現在完了・過去完了の使い分けなどという頭が痛くなるような面倒なことが皆の行く手に立ち塞がるのだ。特に「定冠詞不定冠詞の使い方」は多くのアメリカの知識階級の連中でも、”Don’t ask me.”と拒否反応だった。これらの詳細はここでは遠慮して置くが、その他には英語にはないと思われている「敬語的な使い方」だってあるのだ。
繰り返して申し上げておくが、私はこれらの難関を全て「音読・暗記・暗唱」で何とか乗り越えられたのだが、その背景には湘南中学から高校に書けての優れた英語教育と上智大学での千葉勉教授の厳しい授業のお陰で、何とか裏付けることが出来ていたのだった。更に、生まれて初めて敵性語であった英語を学び始めて間もなく終戦となって、GHQの秘書の方に厳格に話し方を訓練されたという幸運もあったので、何とか解るようになったのだと自覚している。
結び:
そう言って振り返ってみれば、矢張り七面倒くさい理屈を教えられることと同時進行で「話すこと」を優れた教え方で学べば、何もアメリカまで「語学?」などを勉強にに行かずとも、何とかなるものだという事実だ。即ち、これも繰り返して主張したことで「13歳の中学校1年から英語を学び始めても十分に間に合う(何に?)」ということだ。