新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月11日 その3 またまた三連休だ

2017-08-11 15:19:52 | コラム
当方には何の有難味もない連休:

11日は雨模様の天候で何処に出ていく気にもならずに、高校野球のテレビ中継を眺めていた。私は色々の根拠があって、戦後の何もこれという娯楽も国民的な行事のない頃に人気が高かった甲子園の野球は止めるか形態を変更すべしとの、長年の論者である。それだからこそ、湘南高校の級友・脇村春夫君が高野連の会長に就任したお祝いのクラス会では、非礼を省みずに彼に書面で「お止めなさい」と忠告?したのだった。

私は運動部の出身者としてあの野球部という組織に普及している妙な仕来りというか伝統というのか知らぬが、あの独特の文化は気に入らないのだ。それは「礼に始まって礼に終わる」という武道での伝統的な美風に倣ったのか、試合開始前に全員がベンチの前に斜めに並び審判か誰かのかけ声で走り出して本塁を挟んで整列しお辞儀をするのは結構ではあるが、古めかしいしプロでもやらないし、アメリカでも当たり前のようにやっていない。学校教育の一環として礼儀作法を教えているとでも言いたいのか。

他にも気に入らないことがあるので、順序不同で並べていく。何故、野球部員は丸坊主でなければいけないのか。そうではない学校もあるが、奇妙な仕来りだと思う。嘗てあのような剃り上げたような坊主頭のアメリカ人に「それをスキンヘッド」というのかと尋ねると「それは違う。Skin headはナチスを想起させてconnotationが悪すぎるのだ」と答えた。即ち、ナチスを連想させるのだ。昭和24年に湘南高校が最初で最後に夏の甲子園に出て優勝してしまった時の10数名の中には長髪が何名もして物議を醸したものだった。髪の長い者は心が歪んでいるとでも言うのか。

次は、多くの心ある解説者が「一塁ベースに頭から滑り込む(ヘッドスライディングはカタカナ語で、英語はheadfirst slidingだ)よりも全速力で走り抜ける方が早い」と言っているにも拘わらず、高校野球では闘志(ファイトもカタカナ語である)を示すものとして勢い良く、ユニフォームを汚してみせる。また、敗戦の最後の打者となった者は滑り込まないと叱られるでもするのか、皆頭から飛び込むのだ。私は何かをはき違えていると思って見ている。

何と言っても感情的な極みと言いたいのが、負けた学校の生徒たちが予て用意の袋を取り出して涙ながらに鳴尾浜の砂を掻き込むのだ。それをまた多くの写真班が取り囲んで地ベタを這いずって写真を撮るのも奇怪な場面である。何処の誰が始めたことか知らないが、私は好ましいこととは思わない。欲しければ最初に取っておけば良いじゃないか。それに、あの写真が載った新聞も雑誌も見たことがないのは何故だろう。

高野連と朝日新聞には色々と言いたいことがあるが、ここでは省略する。一言二言言えば、戦前乃至は戦後の取り決めに未だに固執しているのか時代が変わった今日に、ベンチに18人しか入れないとか、コーチは駄目とか、訳が解らなすぎる。英語で言うhit by a pitchを死球と誤訳したのも笑えるが、当てられた者が避けていないと一塁に出さないという判定は明らかに「フェアープレー」を誤解しているとしか思えない。

あのような苔むした高野連のがんじがらめの決めごとの中で、この地球温暖化に苛まれる8月に、暑い暑い関西で野球をやらされる高校生の身になって考えるべきだ。100何十球も投げたとか、何連投したと褒め称える朝日新聞以下のマスコミも好い加減に目を覚ませと言ってやりたい。


8月11日 その2 始末したい売国奴集団

2017-08-11 07:29:09 | コラム
脅威よそに「加計・日報」:

これは産経新聞が昨日の閉会中審査を報じた記事の見出しである。その通りだと思う。国費と時間の浪費以外の何物でもない。これを報じたニュースに民進党の札付き(私が付けている)福山哲郎の顔が見えたので、その内容は解ろうというもの。私はこの野党とマスメデイア連合の内閣攻めは、誰がどう批判しようと止まらないと思っている。放置しておく訳にはいかないと考えている。

理由は簡単で、彼らの眼中には国益も何もなく、彼らはただひたすら安倍内閣を罵倒して何時は退陣させて、中国は習近平が目指している「日本国の属国化」に貢献しようとしているだけとしか考えられないのだ。私はそんなことが実現する訳はないと信じているし、多くの良識ある国民はそれを望んでいる訳がないと思っていない。

だが、彼らは執念深いのだ。私は安倍内閣と自民党が必ず我が国を救わんと立ち上がってくれると信じている。私はこういうことを論じる度に「濁れる海に漂える我が国民(クニタミ)を救わんと、清き心の益荒男が剣と筆を取り持ちて」という旧制一高の寮歌を思い出す。

ところで、野党やマスメディアの連中が何かと言えば「国民が理解していない」とか「そう言っても国民は信じない」などと「国民」のせいにして、総理や閣僚を攻めるのは気に入らない。私も国民の一人だが、彼らの主張や非難や批判の内容などに未だ嘗て賛成したことはないのだ。勝手に国民が云々という議論は全くのこじつけであると思うのだ。

どのように英語を勉強してきたのか

2017-08-11 06:52:35 | コラム
音読できてはならない英文だ:


私が書くものに対して「英語関連の話題だと読まない」というご意見を頂戴したこともある。だが、今回は敢えて英語の話題を採り上げてみよう。これと同じような内容は以前にも発表したことがあるが、極端なことを言えば「我が国の英語教育の好ましからざる一例」を採り上げたと考えている。

中に採り上げた会話の英文を音読してみて頂きたい。文字の通りには読めない方は正しく英語の勉強をされた方だと言えると思う。一方では、この英文をすらすらと何の障害物もなく音読できてしまったのであれば、それは「英語とは何かを学び損なっていた」と判断しても良いかと思う。特に冒頭の”Every years”を文字通りに音読できてしまうようでは、芳しくないのだ。”Correct errors, if any..”の典型的なような例文だ。

一寸長くなるが、お付き合い願えれば幸甚である。

英語がペラペラのように聞こえた

どの水準の英語力を目指すのか

私は持論として「英語で話す際には文法を正確に守り、中学校1~2年の教科書に出てくる程度の言葉を沢山使って、細部まで十分に伝えるように心がけ、発音を明瞭にして相手に聞き取って貰えるような速度で大きな声であるべき」と主張してきた。そして、「英語で話す際には頭の中のギアを英語に切り替えて、出来る限り頭の中で日本文を英訳するような作業は避けて、英語のみで考えるようになれば尚良い」とも言ってきた。だが、忘れてはならないことは、決して俗に言う「ペラペラ」を目指す必要などないということだ。

実は私は「ペラペラと聞くと、何となくただ単に早く話せるだけのことで、薄っぺらな内容を英語で話すこと」のように思えてならないのだ。決してそうなってはならず、格調高く重厚な英語を目指して貰いたいと思っている。

屡々「単語を並べてみたら通じた」であるとか「兎に角通じれば良いのではないか。どんな英語でも実際に役に立てば良いのではないか」といった主張をされる方に出会う。それはその方の主義主張であるから、私の持論とは違うからといって論争を挑む気にはなれない、通じたのだから。そういうことを言われる方は「文法などと固いことは抜きにして、実用性を重んじられたのだろう」から、私の出る幕はないと思う。しかし「文法だけは何とかお守り頂きたいのだ」と、ガリレオのようなことは言っておきたい。

もう20年近く前のことだったと記憶するが、地下鉄の中で私の前に立った2人組の英語での下記のような会話をするのを聞いていた。片方は英語のnative speakerではない外国人で、一方は我が同胞だった。以下は私が聞き取った会話の一部だが、私が偶然に聞いていた間はほぼ一方的に同胞が話していた、如何にも流暢というか「ペラペラ」とも形容したい高速な英語で。

"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family , you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."

と、ここまでで遺憾ながら彼等が下車してしまった。この例文かこれまでに採り上げたことがあるので、ご記憶の向きもあるかも知れない。これは試験問題にある「文中の誤りを正せ」のようなものだ。即ち、単数と複数、過去と現在等々が全く無視されているのだ。我こそと思う方は文法の誤りだけでも正そうと試みて貰いたい。

私が問題にしたいのはこの英語(なのだろう)をどのように受け止められ、どのように評価されるかだと思う。実は、これでも通じていたのは間違いないのが問題だと思う。私は「この不正確な英語でも会話が成り立つので、そこで満足するか」または「より良い英語というか、さらに高いところを目指すのか」だと思う。お解りの方はおられるだろうが、明らかに文法は無視で、ワードで入力すると疑問ありとされてしまう箇所がいくらでもあるのだ。「でも、通じたのだったら、それで良いじゃないか」という結論を出した方はおられた。

更に重要なことは、一度こういう種類の英語で「通じる」と知ると安心してしまい、先ず正しいというか正確な英語の世界には戻れなくなる点だ。即ち「通じれば良いじゃないか」なのだ。これを本当の英語に戻す為には、当人がよほど意識して勉強し直すか、正しい英語とは如何なるものかを心得ている指導者に導いて貰うかであろう。

ある専門商社の海外部門担当の専務さんにこの例文をご覧に入れたところ「貴方は私の海外出張に何時の間にかついてきていたのか。私の英語は将にこれなのだ」と笑って言われた。

多くのおかしな英語の表現の中でも、絶対にお薦めできないのが、“you know”の多用である。これは何度か指摘してきた問題点であり「これを会話の中に挟むことは、貴方が『有能』であることを示すことにはならない」のであるし、言って良いかの階層にあることを示したことにもなるのだ。

私が1945年にGHQの秘書の方に英語で話すことを教え込まれた際に「如何に言葉に詰まっても“you know”と言ってはならない」と厳しく指導されたのだった。だが、アメリカからやってくる元はMLBの野球選手たちには、南米出身の連中も含めて、これを多用する者が多い。即ち、自分がそういう階層に属すると問わず語りしているのだ。

敢えて極端とも思える指摘をすれば、“you know”を多用するアメリカ人に出遭ったならば、その人物は「そういう程度の教養しか持ち合わせていない」と断定して、それ以後のお付き合いを避けても良いほどだ。

私は上記の英語まがいの語りの中で最も興味深く受け止めたのが“children become big”の一節だった。即ち、この話し手は明らかに「成長した」と言いたかったのだが、“grow”という単語をご存じなかったか、あるいはとっさに思い浮かばずに“become big”、即ち「大きくなった」の直訳で逃げたのかも知れない。善意で解釈すれば「異なった言い回しで話を進める表現力を備えておられた」かのようでもある。私は文章でも会話でも、このような異なった言い回しをすることができることは重要だと思っている。だが、これは同時に語彙の問題でもある。

貶してから褒めたような論旨の展開となったが、我が国の英語の使い手と言われている方の中にはこのような文法に問題があることが多いと、経験上から言えるのだ。私はこの辺りに、我が国の英語教育における「文法重視」の成果に疑問を呈したいのだ。この問題点は「カタカナ語のほとんどが文法の原則を忘れて、複数や過去や現在の使い方を欠いているものが多い」ことからも明らかだと考えている。

結論を言えば「通じれば良い」といった低次元の英語力で満足するか、「いや、私は飽くまでも文法等の原則を守った格調高い英語を目指して支配階層の仲間入りをする」と言われるのかは、人それぞれの好みで私が介入することではないと思っている。しかしながら、上記の例文のような英語はお勧めしたくないし、英語を母国語とする人たちに尊敬されることはないことだけは保証しておく。私はそうではなくなるように英語を教えるのが「英語教育に携わる方の義務」であると思っているのだ。しかし、中々そうはなっていない辺りが綿国の英語教育の泣き所ではないのか。