新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「我が国の学校教育の英語」対「私の英語勉強法」

2017-08-14 15:01:38 | コラム
私の英語勉強法:

渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」に寄せられた私への質問に答える形で、私の英語勉強法を振り返ってみた。

私は我が国の学校教育における外国語、就中英語について言えば、誤りであるとまでは断言しないが、少なくとも生き物であるはずの言葉を恰も科学の如くに見做して” the Science of English”として、まるで数学のように教えていることがおかしいのだと主張して来た。即ち、「科学として英語」にしてしまったのである。

念の為に、”science”を毎度引用するOxfordで見れば、”knowledge about the structure and behavior of the natural and physical world, based on facts that you can prove, for example by experiments”となっている。私は言葉などというものは、これほど七面倒くさいものではないと信じている。

1980年代だったか、小田急線の車内でふざけて暴れ回っていた2名のアメリカの(白人の)小学生を乗客が皆黙って見ているだけだった。そこで、私は「義を見てせざるは勇なきなり」と立ち上がって、先ず”Behave yourself. boys.”と怒鳴り上げてから、”Where do you think you boys are? You are in a public transportation facility, by the name of Odakyu Railroad.”と説教した。

子供たちはシュンとなってとなしくなり席に着いたが、そのうちの一人が何を思ったのか、”Where did you learn to speak English so well?”と訊いてきたではないか。私は”Do you think you’ve learned how to speak English? I’ve just picked it up myself.”と答えてここでも黙らせた。

自慢話と思われないように敢えて解説すれば「何処でそんなに英語が上手く話せるように勉強されたのですか」との質問に「君たちは英語が話せるようになる勉強をしたのか。私は話せるように自分で努力しただけだ」と答えたのだ。この昔話を持ち出した理由は「学校で教えられただけで自分で何もしなければ、簡単に話せるようにはならない」と言いたかったのである。

同時に、こういうことを英語で表す格好な例文であると思うので取り上げた。この例文の特徴は何処にも所謂「難しい単語」など出てきていない点だ。こういう単語だけで、考えようによっては難しいことが容易に表現できるという良い例文になると信じている。後述するが「単語をバラバラに覚えるのではなく、こういう例文を繰り返し音読し暗記することが肝腎なのだ。換言すれば「流れの中でその単語の使い方を覚えること」なのである。

今日までに繰り返し採り上げてきた「私の英語勉強法」を、ここでは可能な限り簡潔に述べていこう。それは一にも二にも「中学校1~2年程度の教科書を10回でも100回でも音読し続け、結果として完全に暗記できて何処からでもスラスラと暗唱できるようにすること」なのである。「そんなことで英語が解るようになるのか?」との疑問をお持ちの方は上記の英文を思い出して欲しい。

繰り返し音読している間に自然にその文章の意味が解ってくるようになるものだ。私はそうであると非科学的に立証している。それは、この音読と暗記・暗唱だけで、中学1年から大学2年までの英語の試験で90点を切ったことは2回しかなかった。特に勉強せずに、これだけで対応してきたのだ、念の為。「では解らない単語に出会ったらどうする」とお尋ねになるだろう。答えは簡単で「その度毎に辞書を引けば良い。そして絶対に教科書でも何でも書き込んではならない」だけだ。

これは、「同じ単語を覚えるまで何度でも辞書を引けば良い」との提案でもあるのだ。先ほど「流れの中で」と言ったが、その意味は「同じ単語でも、前後の流れで全く意味や使い方が変わってくるものだ」なのである。故に、「単語帳や単語カードなどを作るのはお止めなさい」となるのだ。思いついた例を挙げておくと、”with”とは前置詞で「・・・とともに、・・・と一緒に」とジーニアス英和にはある。

だが、”Are you with me?”では「私の言うことが解っていますか?」であるし、”I am with 何とかかんとか Company.”では「私は何とかかんとか会社の社員です」という意味になってしまうのだ。私は実際にここに挙げた”Are you with me?が如何なる意味か解らなかった例をこの目で見ていた。

未だ不安に思われる方がおられるだろう。何度も採り上げてきた実例だが、私の上智大学の同期生に横須賀から来た秀才K君がいた。彼の英語力は同期の全員を驚嘆させた。試しにK君に勉強法を尋ねてみるとほぼ私と同じで「音読、暗記・暗唱の繰り返しだけ」で、先ほど触れなかったが英文解釈など一切することなく、その文章が何処で切れるか、何処が強調されている等々が解るまで音読し続けたというだけだった。特に発音はnative speaker並だったし、会話の能力も言わばbilingualの水準に達していたのだった。

これがまず最初の成功例である。これに意を強うした私は、偶然の機会で中学校1年の男子に英語だけを教える家庭教師のアルバイトを見つけたのだった。そこで親御さんの了解を取って「暗記・暗唱の繰り返し」の学習法で約2年間教えたのだった。そして、2年生になった頃には日常的な意思表示を英語で出来るようになった。この中学生は、後に親御さんから聞いたのだったが、高校3年を終えるまでに英語は常にオール5との成績で、担任の先生からは「英語教育だけが高校教育の全てだったら、この子は最優秀だった」と評価されたそうだ。

3例目を挙げよう。1997年から某商社で入社2年目の若手を個人指導する機会を与えられた。教え方はここに言うまでもない。だが、ここではもう少し厳しくして「街を歩きながら、何でも良いからめに入ってくる風景を描写して英語で独り言を言って見ろ。誰かが聞いていれば恥ずかしいなどと言っているのならば、君の英語には将来はない」とも言った。また、帝国ホテルの1階のロビーにあるサロンで多くの人が脇を通る席に座って二人で英語だけで会話をすることを強制してみた。ここでも、「誰かに聞かれては・・・といったような羞恥心は忘れろ」なのだった。

彼はあの多忙な商社の仕事をこなしながら努力して、1年半ほどで部内でもトップクラスの英語の使い手と評価されるまでに進歩した。ここまででは、私を含めても「たった四件の成功例だ」との声があるのも承知している。だが、我が国の学校教育で「科学としての英語」で育った来た方々には、「アメリカに行っても十分に通じたという成功例がありましたか」と問いかけたい。

私は「学校の英語教育を無視しなさい」と申し上げる気もなければ、そこまでの蛮勇もない。ただ言えることは「学校の英語教育が何を目指しているのか」との単純素朴な疑問の提示である。これも、繰り返して指摘してきたことで、ある高校の女性の英語教師が「ちっとも話せるようにならない」と非難されて憤然として言い返したことが、

「私たちは話せるようにする為に英語を教えていない。英語とは生徒を五段階で評価して優劣の差を付ける為の手段に過ぎないと知って貰いたい」だったのである。誠に正直な先生だと思う。こうやって育てられた多くの生徒さんたちが成長して社会に出てこられた後でどうなったかの実例を、私は数多く見てきた。それなのに、効果が上がらなかったと言って、小学校3年から今までと同じ手法で教えれば、結果は変わらないのではないのか。